Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

田中一村記念美術館

2010年12月20日 | 美術
 マイレージが少し貯まっていて、2年余り放置しているので、有効期限が気になった。そこで、週末を利用して、奄美大島に行ってみた。こういう機会でないと、少なくとも私には、なかなか行けない場所だ。もう一つは、田中一村記念美術館に行ってみたい気持ちもあった。

 奄美大島は暖かかった。空港の周辺にはサトウキビ畑が広がっていて、のどかな別天地だ。頬をなでる風が気持ちよい。タクシーで近くの海岸に行った。エメラルドグリーンの海をみながら歩いていたら、うっすらと汗が出てきた。

 田中一村(たなか・いっそん)は、1908年に栃木県に生まれ、1977年に奄美大島で没した画家。幼少のころから画才を発揮し、1926年には東京美術学校(今の東京藝術大学)に入学したが、同年6月に中退。同期には東山魁夷らがいた。
 1953年と54年に日展に出品するが落選。1957年と58年には院展に出品するがこれも落選。失意のまま1958年に奄美大島に渡った。大島紬の染色工をしながら細々と生活し、独自の作風を探求した。

 同美術館は、子供のころの作品から、独自の作風の完成まで、その生涯の変遷をたどる構成になっていた。アダンやソテツや不喰芋(クワズイモ)といった熱帯の植物に満たされた構図が、実は戦中から戦後にかけての千葉在住の時期にも(植物はちがうが)みられることが興味深かった。同質の構図が、奄美大島に渡って、熱帯の植物に出会ったことで、その意味を明らかにした。植物に埋もれて自然と一体化し、生命が解放されることが、その意味だ。

 一村は1947年に川端龍子(かわばた・りゅうし)主催の青龍展に入選した。しかし翌年の「秋晴」が落選し、袂を分かった。その「秋晴」も展示されていた。金地に描かれた力作。なぜ落選したかはわからない。もし入選していたら、と考えてしまった。入選していたら、画壇に地歩を築くきっかけになったかもしれない。そうなったら、失意に苦しむこともなく、奄美大島に渡ることもなかったろう。

 市内には一村終焉の家が残っていた。小さくて粗末な家だ。失礼ながら、掘立小屋という表現がふさわしい。一村はこの家を借りて一人暮らしをした。1977年、炊事中に倒れて亡くなった。家は別の場所から移築された。取り壊されなくてよかった。

 今年、千葉市美術館などで「田中一村展」↑が開かれた。ご覧になったかたも多いと思うが、私は行けなかった。これで溜飲が下がった。
(2010.12.19.田中一村記念美術館)

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