Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

フルシャ&都響(Aシリーズ)

2010年12月21日 | 音楽
 ヤクブ・フルシャのもう一つのプログラムは、リストの交響詩「レ・プレリュード」、ショパンのピアノ協奏曲第1番(ピアノ:ニコライ・ルガンスキー)、マルティヌーの交響曲第3番というもの。前半2曲は名曲コンサートのようだが、後半にマルティヌーをもってくるあたりが渋い。しかも、リスト、ショパン、マルティヌーを並べると、故郷を失った作曲家という側面がみえてくる。

 リストの「レ・プレリュード」では、演奏にも、作品にも、とくに新しい発見はなかった。

 寺西基之さんのプログラムノートには、興味深い話がのっていた。この曲は従来からラマルティーヌの詩(人生は死への前奏曲であるという趣旨)にもとづいて書かれたといわれてきたが、実はまったく別の出自だそうだ。元々はジョセフ・オートランという人の詩にもとづく合唱曲「四大元素」の序曲として作曲されたらしい。それがあたかもラマルティーヌの詩の解題のようにきかれてきたわけだ。なにか足元をすくわれた気がして、音楽の危うさを感じた。

 ショパンのピアノ協奏曲第1番では、ルガンスキーの甘さ控えめの演奏もさることながら、フルシャの指揮に感心した。頻出するテンポ・ルバートにぴったり合わせる柔軟性と、オーケストラの細かい表情付けは、並みの指揮者ではない。協奏曲のバックになると途端に不器用になる指揮者がいるが、フルシャはそうではない。

 マルティヌーの交響曲第3番では、この曲のあらゆる意味を明らかにする演奏が展開された。1944年という作曲年代を反映して、戦争の暗い影が落ちている曲だが、第1楽章の緊張した楽想のなかには、マルティヌー特有の泡立つような音型が入り込んでいるのがよくききとれた。
 第2楽章では冒頭の弦による主題が、チャイコフスキーの交響曲第5番の「運命の動機」のようにきこえた。この曲だけならそうは思わなかったかもしれないが、Bシリーズの「リディツェへの追悼」では、はっきりとベートーヴェンの交響曲第5番の「運命の動機」が引用されていたので、この曲にも引用あるいは暗示の可能性が考えられた。
 第3楽章では、闘争的な前半部分にたいして、喪失感が広がり、慟哭を抑えた後半部分に引き込まれた。コーダでは、明るく終わりそうなのに、小声でつぶやくような疑念がはさみ込まれ、強い警告で終わるのが印象的だった。

 私にはフルシャ&都響は、この曲の、私にとっての初演者として、生涯記憶にとどまると思われた。
(2010.12.20.東京文化会館)

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