8月15日にはネット番組「Choose Life Project」(以下「CLP」)の「“わたし”にとっての戦争責任とはなにか」を視聴した。出演者は憲法学者で東大教授の石川健治氏、戦史・紛争史研究家の山崎雅弘氏、若い哲学研究者の田代伶奈氏と永井玲衣氏。進行役は田代氏が務めた。田代氏はいまミュンヘンにいるそうだ。地球上のどこにいても対話に参加できるのがZOOMのよさだ。
わたしは今年5月の検察庁法改正案のときにCLPの取り組みに注目した。それ以来ほとんど漏れなく視聴している。どれもテーマの設定がタイムリーで、しかも当事者が集まって対話をするので、大変参考になる。問題を掘り下げて、しかも身近に捉えることができる。
今回のテーマでは「“わたし”にとっての」という問題の立て方に共鳴した。わたしはいままでそのように一人称で戦争責任を考えたことがなかった。そんな自分の迂闊さをつかれた思いがした。
石川氏は、責任という言葉にはresponsibility、accountability、liabilityなどのいくかの意味がある。それぞれ意味が異なる。responsibilityには問いにたいする答えという意味がある。戦争責任については、問いはすでに立てられているが、答えが出されていない、と語った。
山崎氏は、戦争責任には5つの種類がある。(1)戦争を遂行した政府の責任、(2)その政府を支持した一般人の責任、(3)戦争行為をした軍人の責任、(4)過去になにがあったかを知る責任、(5)未来に向けて同じことを繰り返さない責任。このうち(1)~(3)と(4)~(5)とは性格が異なる。(1)~(3)は戦争当時の人々の責任だが、(4)~(5)は戦後のわたしたちの責任だ、と語った。
以上の要約は、わたしが聴きとったものなので、もしかすると正確性を欠くかもしれない。ともかくどちらも「“わたし”にとっての戦争責任」を考えるうえで重要な視点だと思う。それらを入り口にして対話は進んだ。興味のあるかたはYoutubeでアーカイブを視聴願いたい。
番組の最初に当日(8月15日)の全国戦没者追悼式での安倍首相の式辞の一部が流された。また番組の最後には1945年8月15日の昭和天皇の玉音放送が流された。わたしはそれらの録画・録音が奇妙に似ているように感じた。どちらも甘い自己憐憫に満ちている。アジアの人々への加害性には盲目だ。それは戦後の精神構造に深く根を下ろしている。つねに自らを被害者の立場におく。加害者としての立場を引き受けない。その精神構造はすこし幼くはないだろうか。
わたしは今年5月の検察庁法改正案のときにCLPの取り組みに注目した。それ以来ほとんど漏れなく視聴している。どれもテーマの設定がタイムリーで、しかも当事者が集まって対話をするので、大変参考になる。問題を掘り下げて、しかも身近に捉えることができる。
今回のテーマでは「“わたし”にとっての」という問題の立て方に共鳴した。わたしはいままでそのように一人称で戦争責任を考えたことがなかった。そんな自分の迂闊さをつかれた思いがした。
石川氏は、責任という言葉にはresponsibility、accountability、liabilityなどのいくかの意味がある。それぞれ意味が異なる。responsibilityには問いにたいする答えという意味がある。戦争責任については、問いはすでに立てられているが、答えが出されていない、と語った。
山崎氏は、戦争責任には5つの種類がある。(1)戦争を遂行した政府の責任、(2)その政府を支持した一般人の責任、(3)戦争行為をした軍人の責任、(4)過去になにがあったかを知る責任、(5)未来に向けて同じことを繰り返さない責任。このうち(1)~(3)と(4)~(5)とは性格が異なる。(1)~(3)は戦争当時の人々の責任だが、(4)~(5)は戦後のわたしたちの責任だ、と語った。
以上の要約は、わたしが聴きとったものなので、もしかすると正確性を欠くかもしれない。ともかくどちらも「“わたし”にとっての戦争責任」を考えるうえで重要な視点だと思う。それらを入り口にして対話は進んだ。興味のあるかたはYoutubeでアーカイブを視聴願いたい。
番組の最初に当日(8月15日)の全国戦没者追悼式での安倍首相の式辞の一部が流された。また番組の最後には1945年8月15日の昭和天皇の玉音放送が流された。わたしはそれらの録画・録音が奇妙に似ているように感じた。どちらも甘い自己憐憫に満ちている。アジアの人々への加害性には盲目だ。それは戦後の精神構造に深く根を下ろしている。つねに自らを被害者の立場におく。加害者としての立場を引き受けない。その精神構造はすこし幼くはないだろうか。