Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ハーガー/読響

2014年12月23日 | 音楽
 「第九」の季節がやってきた。レオポルド・ハーガー指揮読響の「第九」を聴いた。

 レオポルド・ハーガーはザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団の首席指揮者としてその名を記憶している。下野竜也がウィーン音楽大学に留学したときの恩師でもあったそうだ。その縁もあって読響に招かれたのだろうか。

 プログラムは「第九」だけ。冒頭、第1ヴァイオリンの32分音符と4分音符の下降音型が、実にいい感じで演奏された。粘つかず、短く切るわけでもなく、適度な音価で――という言い方は曖昧だが、端的にいって、ロマン的な演奏スタイルではなく、ピリオド的でもなく、その中間の(今となっては懐かしい)スタイルで――演奏された。

 こういう演奏スタイルが一貫していた。懐かしいが、かといって古びた感じはしなかった。これはこれで生きていた。

 全体に自然な呼吸感があった。楽々と呼吸していた。音楽を緊密に構成するのではなく、遊びの部分があった。見通しのいい、風通しのいい演奏だった。指揮者がオーケストラを引っ張るのではなく、オーケストラと対話する演奏だった。

 細かい点では、第4楽章でチェロとコントラバスに「歓喜の歌」が出てくる直前に‘間’を置かなかった。あそこは「歓喜の歌」の効果を高めるために‘間’をおきたくなるところだが、そんなことはしなかった。一定の拍節感で進んだ。

 同様の例は、第4楽章の終盤、4人の独唱者がカデンツァの最後の音をフェルマータで結び、弦がピアニッシモで入ってくる箇所でも見られた。怒濤のコーダの効果を高めるために‘間’をおきたくなるところだが、(なにもしないで)さっと先に進んだ。

 見得を切ることなど眼中にない演奏だ。昔よく使われた言葉に‘滋味あふれる’という言葉があったが、聴き手側からいえば、当たらずといえども遠からず、といった感じの演奏だった。

 独唱者4人は高度なレベルの歌手たちだった。新国立劇場合唱団もしかり。これらの声楽陣も相俟って、高度なプロ集団による「第九」演奏だった。

 これもよし。でも、年末歳時記の「第九」もまたよし。今年は縁あって北区第九合唱団の「第九」を聴いた。それにも感動した。三ツ橋敬子指揮の東京シティ・フィルが演奏していた。第2楽章のひたすら前進する演奏に息を呑んだ。
(2014.12.22.サントリーホール/12.14.北とぴあ)
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