新国立劇場の「ドン・カルロ」。2006年の初演のときも観ているので、これで2度目だが、初演から8年もたったせいか、新鮮な感覚で観ることができた。
マルコ・アルトゥーロ・マレッリの常として、演出と美術の両方を兼ねている。ひじょうに洗練された舞台だ。美術から入った舞台、感覚的な舞台――。これは成功作だ。この舞台が初演から今まで8年間もお蔵入りしていた。それが不思議なくらいだ。逆に、具体名は触れないが、凡庸な舞台が再演を重ねているケースもある。制作コストの問題だけだろうか。
個々の場面で印象深かったのは、第2幕の火刑の場面だ。ああ、そうだったかと思ったが、火刑は舞台の一番奥で行われる。少しもスペクタクル的ではない。抑制的で、かつ内省的な作り方だ。それがこの演出の本質だ。また「天よりの声」は赤ん坊を抱いた貧しい母親の姿で登場する。これにもハッとした。
今回、歌手はきわめて高水準だった。ドン・カルロのセルジオ・エスコバルは強い声の持ち主だ。ロドリーゴのマルクス・ヴェルバとフィリッポ二世のラファウ・シヴェクは、声も容姿も相応しく、また演技力もあった。宗教裁判所長の妻屋秀和は、声に不足はなく、また盲目の老人を‘怪演’していた。
女声では、エリザベッタのセレーナ・ファルノッキアは、第1幕のドン・カルロとの二重唱ではセーブ気味だったが、第4幕のアリアとそれに続くドン・カルロとの二重唱では実力を発揮した。エボリ公女のソニア・ガナッシの熱唱は全体のけん引役の一人だった。
ピエトロ・リッツォ指揮の東京フィルも好演だった。切れば血が噴き出るようなイタリア・オペラ的な演奏ではなく、もっと入念な、濃やかな陰影をもつ演奏だった。第1幕後半でロドリーゴがフィリッポ二世に「それは墓場の平和!」と言い放つ個所では、恐ろしく暗い音が鳴った。わたしは震撼した。
合唱は、どういうわけか、第2幕冒頭の女声合唱が、口先で歌っているような、言葉が立ち上がってこないもどかしさがあったが、それ以外は違和感がなかった。
全体としては‘静かな’印象があった。エスコバルほか、声の競演でもあるのだが、それにもかかわらず、深い湖のような‘静けさ’を湛えていた。その印象は先日の「パルジファル」と似ていた。あの公演も、声楽がきわめて高水準で(むしろ極上で)、しかも全体の印象は‘静けさ’が支配していた。
(2014.12.3.新国立劇場)
マルコ・アルトゥーロ・マレッリの常として、演出と美術の両方を兼ねている。ひじょうに洗練された舞台だ。美術から入った舞台、感覚的な舞台――。これは成功作だ。この舞台が初演から今まで8年間もお蔵入りしていた。それが不思議なくらいだ。逆に、具体名は触れないが、凡庸な舞台が再演を重ねているケースもある。制作コストの問題だけだろうか。
個々の場面で印象深かったのは、第2幕の火刑の場面だ。ああ、そうだったかと思ったが、火刑は舞台の一番奥で行われる。少しもスペクタクル的ではない。抑制的で、かつ内省的な作り方だ。それがこの演出の本質だ。また「天よりの声」は赤ん坊を抱いた貧しい母親の姿で登場する。これにもハッとした。
今回、歌手はきわめて高水準だった。ドン・カルロのセルジオ・エスコバルは強い声の持ち主だ。ロドリーゴのマルクス・ヴェルバとフィリッポ二世のラファウ・シヴェクは、声も容姿も相応しく、また演技力もあった。宗教裁判所長の妻屋秀和は、声に不足はなく、また盲目の老人を‘怪演’していた。
女声では、エリザベッタのセレーナ・ファルノッキアは、第1幕のドン・カルロとの二重唱ではセーブ気味だったが、第4幕のアリアとそれに続くドン・カルロとの二重唱では実力を発揮した。エボリ公女のソニア・ガナッシの熱唱は全体のけん引役の一人だった。
ピエトロ・リッツォ指揮の東京フィルも好演だった。切れば血が噴き出るようなイタリア・オペラ的な演奏ではなく、もっと入念な、濃やかな陰影をもつ演奏だった。第1幕後半でロドリーゴがフィリッポ二世に「それは墓場の平和!」と言い放つ個所では、恐ろしく暗い音が鳴った。わたしは震撼した。
合唱は、どういうわけか、第2幕冒頭の女声合唱が、口先で歌っているような、言葉が立ち上がってこないもどかしさがあったが、それ以外は違和感がなかった。
全体としては‘静かな’印象があった。エスコバルほか、声の競演でもあるのだが、それにもかかわらず、深い湖のような‘静けさ’を湛えていた。その印象は先日の「パルジファル」と似ていた。あの公演も、声楽がきわめて高水準で(むしろ極上で)、しかも全体の印象は‘静けさ’が支配していた。
(2014.12.3.新国立劇場)