まったくの偶然だが、N響と読響がショスタコーヴィチの交響曲第1番を取り上げた。N響はフェドセーエフ(1932‐)の指揮で、読響はテミルカーノフ(1938‐)の指揮で。ともにロシアのベテラン指揮者なので、演奏の比較に興味が向くのは避けられないところだ。
ともにベテラン指揮者ではあるが、6歳の開きがある。6歳の開きは意外に大きい、というのが正直なところだった。一般的にいって、この年齢になると個人差が大きいわけだが、それにしても、かつての精悍なイメージが強いフェドセーエフは、少し年をとったかなという印象を否めなかった。一方、テミルカーノフは現役バリバリだ。
フェドセーエフとN響の相性はよさそうだった。でも、80歳になったフェドセーエフのN響初登場は、あまりに遅すぎたと悔やまれる。もう少し早い時期だったら、今後の展開が期待されただろうに。
といっても、老け込んだ演奏だったという意味ではないので、念のために付言しておきたい。全然老け込んではいなかった。それはたいしたものだ。だが、かつての精悍な演奏からいうと、どこかに古木のような年月の堆積が感じられるようになった。
なので、ショスタコーヴィチよりも、プログラム後半のチャイコフスキーの弦楽セレナードのほうにいい味があった。なお、最後にボロディンの「イーゴリ公」から序曲とダッタン人の踊りが演奏されたが、これはなんということもなかった。
一方、テミルカーノフはオーケストラのコントロールが‘現役’だった。後半のドヴォルザークの交響曲第8番ともども、バランスがよく、透明感があり、しかもニュアンス豊かな演奏だった。まさに一流の指揮者と一流のオーケストラによる演奏だった。
このときのショスタコーヴィチの交響曲第1番では、第4楽章の結尾で驚くべきことが起こった。畳み掛けるように同じリズムを繰り返すその最後のリズムが、大きくテンポを落として、まるで音価が2倍になったように演奏された。しかもそのリズムが、わたしの勘違いでなければ、少し変更されているように感じられた。
その根拠がどこにあるのかはわからない。でも、このようなショックは基本的に歓迎だ。面白いではないか――。たんなる思い付きならいざ知らず、それまでの格調高い正統的な解釈に照らすと、この処理には独自のインパクトがあった。
(2013.5.18.NHKホール&5.19.横浜みなとみらいホール)
ともにベテラン指揮者ではあるが、6歳の開きがある。6歳の開きは意外に大きい、というのが正直なところだった。一般的にいって、この年齢になると個人差が大きいわけだが、それにしても、かつての精悍なイメージが強いフェドセーエフは、少し年をとったかなという印象を否めなかった。一方、テミルカーノフは現役バリバリだ。
フェドセーエフとN響の相性はよさそうだった。でも、80歳になったフェドセーエフのN響初登場は、あまりに遅すぎたと悔やまれる。もう少し早い時期だったら、今後の展開が期待されただろうに。
といっても、老け込んだ演奏だったという意味ではないので、念のために付言しておきたい。全然老け込んではいなかった。それはたいしたものだ。だが、かつての精悍な演奏からいうと、どこかに古木のような年月の堆積が感じられるようになった。
なので、ショスタコーヴィチよりも、プログラム後半のチャイコフスキーの弦楽セレナードのほうにいい味があった。なお、最後にボロディンの「イーゴリ公」から序曲とダッタン人の踊りが演奏されたが、これはなんということもなかった。
一方、テミルカーノフはオーケストラのコントロールが‘現役’だった。後半のドヴォルザークの交響曲第8番ともども、バランスがよく、透明感があり、しかもニュアンス豊かな演奏だった。まさに一流の指揮者と一流のオーケストラによる演奏だった。
このときのショスタコーヴィチの交響曲第1番では、第4楽章の結尾で驚くべきことが起こった。畳み掛けるように同じリズムを繰り返すその最後のリズムが、大きくテンポを落として、まるで音価が2倍になったように演奏された。しかもそのリズムが、わたしの勘違いでなければ、少し変更されているように感じられた。
その根拠がどこにあるのかはわからない。でも、このようなショックは基本的に歓迎だ。面白いではないか――。たんなる思い付きならいざ知らず、それまでの格調高い正統的な解釈に照らすと、この処理には独自のインパクトがあった。
(2013.5.18.NHKホール&5.19.横浜みなとみらいホール)