2025年4月16日、「石川一雄さん追悼集会」(東京・日本教育会館)に清瀬の仲間と駆けつけました。教師生活をスタートさせた70年から80年代にかけて、日本演劇教育連盟の夏の集会(2泊3日)が10年連続でこの会館をメインに繰り広げられました。私のクラスの上演劇もここで演じられたのです。ちなみにもう1回は日大芸術学部でのことでした。
集会開始20分前に会場に入ると、800の席はほぼ満席状態でした。第2会場も用意されたとのことで、1000人くらいの方が参加したようです。会場を取り囲むように4,50の花輪が所狭しと並べられていました。
ショートムービー、追悼のうた、開会のあいさつ、黙とうと続きました。
追悼のことばはどの方も素晴らしく、心に響くものでした。とりわけ袴田秀子さん、福島瑞穗さん、鎌田慧さんのことばには目頭を熱くさせられました。
最後の石川一雄さんのお連れ合い石川早智子さんの思い溢れる、しかし毅然とした闘う決意を滲ませた訴えは秀逸で心打つものでした。改めて一雄さんは良い方と結婚されたんだなと思いました。
そもそも私が狭山事件と関わるようになったのは、70年代に狭山市に引っ越したときからでした。1977年5月22日(日)、初めて狭山現地調査に参加しました。参加者は2,30人ぐらいだったように思います。発行されたばかりの108頁の冊子を購入しました。
石川一雄さんは無罪だなと確信したのはこの時でした。犯人を取り逃がした茶畑や善枝さんが亡くなっていた芋穴などを巡り、最後に石川さんの住まいに入れてもらったのです。勝手口の鴨居の上に善枝さんの万年筆がでてきたのは警察の3回目の捜索の時でした。その鴨居は誰にでもすぐ見える低いところにありました。専門の捜査員なら初回でも見逃すはずはないなとここで冤罪を確信しました。しかも万年質のインクの種類が異なるのです。
もうひとつの決定的な冤罪の証拠は、脅迫状の筆跡です。ほとんど小学校に通えなかった石川さんに書けるはずもない、意図的に稚拙さを装った知能犯の存在を思わせるものでした。このあたりは鎌田慧さんが鋭く指摘していました。鎌田さんは石川さんが出獄してからほぼ初めてインタビューして『狭山事件』(草思社)を書いたのでした。
最後に我が家の黄色と白色の山吹、もみじを石川さんに手向けたいと思います。
石川一雄さんどうぞゆっくりお休みください。
これからは石川早智子さんの第4次再審請求を支援していこうと思っています。