街中を歩いていると、時々ですが修道尼の格好をしたオバサンに出会います。でも僕は、過去に一度たりとして、幸福そうな修道尼には遭ったことがありません。みんな、暗い顔をして、鬼瓦の一歩手前の表情で、映画の美人修道尼とは違います。ヘプバーンも罪作りな映画(尼僧物語)に出たものです。
函館観光に行くと、必ずコースに入っているのがトラピスト修道院やトラピスチヌ修道院。修道院や修道尼院は、今でこそ俗世との接点がありますが、中世の修道尼の大半は口減らしで放り込まれた不幸な者だったのです。
今では死語に近い持参金という言葉。ブスで嫁入り先の見つからない金持ちの娘が結婚する方法として、嫁ぎ先に持参してくるお金が持参金。元々は結納とのセットの場合があり、結納金が持参金に化けると負担が少ないわけです。
坂田靖子のコミック『バジル氏の優雅な生活』の中で、親友の貧乏画家ハリーが持参金目当てで、金持ちのブス女を紹介してくれと持ちかけるシーンがあります。顔がひどければ酷いほどいいとひどいことを言って。バジル氏の策略で、ハリーは目出度く貴族の美人の娘と結婚できるのですが、持参金目当ての愛の無い結婚は山ほどあったのだと思います。男の方は愛人を作って息抜きというパターン。
ところが、持参金だけでは嫁ぎ先が見つからない場合、真っ先に選ばれたのが修道尼寺。修道女の大半は、自分から進んで入ったのではなく、親の口減らしのために放り込まれたのです。受け入れる修道尼寺も持参金が入ってくるのでウハウハ。こうして、神と結婚するという偽善の言葉で修道女になり、人生を諦めて神に仕えるという、本末転倒の尼僧物語が世界のあちこちにあったのです。
ところが、若い女の性欲は凄まじく、隙を見ては男を引き入れるので、それを揶揄(やゆ)する話が作られました。ボッカチオの『デカメロン』の中で、体を持て余している修道女目当てで、唖(おし)に扮して庭師として潜り込む男の話があります。男は最後には老院長の相手もさせられ、体が持たないと口汚く罵って逃げていきますが、院長は奇跡で口が開いたと触れ回ります。
貞操帯という、これも死語に近いものですが、ヨーロッパの王や貴族が遠征の際に、城や家に残す妻に装着した浮気防止用の器具があります。ルーツは十字軍らしいですが、ヨーロッパ人の性格からして随分前からあったと思います。そこまでしないと妻の浮気は止められない。何だかなーという声が聞こえてきそうですが、五輪期間中に遊ぶ女性選手が山ほどいるから、IOCが避妊具を大量に配っているのです。相手する男だけの責任ではない。
日本でも暴力男から逃げる駆け込み寺として尼寺が機能しますが、僕は宗教は逃げ込む場ではないと思っているので、逃げてきた尼さんにも否定的です。口減らしでも逃げてきた者でも、その根本に不幸がある限り、生命の樹には属していないと考えるからです。
生命の樹とは、最低限として、幸福な者だけが登ることのできる天界への梯子。結婚して不幸になったとか、家庭が崩壊したとか、犯罪に関わったとか、事故で失ったとか、そのような不幸な人の逃げ場所は死の樹にしか無いのです。なぜなら、全てを失っても神を失わなかったら不幸ではないからです。
神の道を説く者は、絶対に幸福でなくてはならない。自分のように幸福になるための道を教えるのだから。不幸な人は不幸な道しか教えられず、従ってその道は死の樹の小路となる。目に光があり、幸福な人は御霊(みたま)が明るい。しかし、修道尼の格好した大半の女は、目が死んで御霊の暗さが顔の暗い表情となっている。偽善で神を裏切っている顔です。このような背徳者に神の道を説く資格はない。
同じことは音楽をやっている人にも言えます。楽器のケースを背負った若くない人も多く見かけますが、やはり大半は暗い顔をして、芸術の世界に生きているという輝きがありません。芸術の本質を知らないから暗くなるのです。芸術とは神を証しすること。それは常に喜びに満ちているのだから。
大指揮者カラヤンは、チャイコフスキーの交響曲第6番『悲愴』をベルリン・フィルとウィーンフィルの両方で録音していますが、1976年録音のベルリン・フィルとの録音より、1984年のウィーンフィルを指揮したものの方が圧倒的に良い。1983年の、女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤー入団のトラブルでベルリン・フィルと疎遠になったカラヤン。その翌年の指揮で、生涯最高の名演を遺した。
管楽器が鳥となってから「天に帰れ」と呼ばうのに、地の弦楽器が下界に引き止めようとする。晩年になって、人生の残りが少なくなって、この世での名残惜しさと、天から招かれる声との間で、本当に一分一秒が貴重な時間となったカラヤン。あるいは、作曲したチャイコフスキーも同じ心境だったのか。それがベルリン・フィル盤にはない美しさと優しさの理由だと思います。でも、天からの呼ばう声がCDから聴き取れたらヤバイのかも。だって、自分も呼ばれているのと同じだから。
エフライム工房 平御幸
函館観光に行くと、必ずコースに入っているのがトラピスト修道院やトラピスチヌ修道院。修道院や修道尼院は、今でこそ俗世との接点がありますが、中世の修道尼の大半は口減らしで放り込まれた不幸な者だったのです。
今では死語に近い持参金という言葉。ブスで嫁入り先の見つからない金持ちの娘が結婚する方法として、嫁ぎ先に持参してくるお金が持参金。元々は結納とのセットの場合があり、結納金が持参金に化けると負担が少ないわけです。
坂田靖子のコミック『バジル氏の優雅な生活』の中で、親友の貧乏画家ハリーが持参金目当てで、金持ちのブス女を紹介してくれと持ちかけるシーンがあります。顔がひどければ酷いほどいいとひどいことを言って。バジル氏の策略で、ハリーは目出度く貴族の美人の娘と結婚できるのですが、持参金目当ての愛の無い結婚は山ほどあったのだと思います。男の方は愛人を作って息抜きというパターン。
ところが、持参金だけでは嫁ぎ先が見つからない場合、真っ先に選ばれたのが修道尼寺。修道女の大半は、自分から進んで入ったのではなく、親の口減らしのために放り込まれたのです。受け入れる修道尼寺も持参金が入ってくるのでウハウハ。こうして、神と結婚するという偽善の言葉で修道女になり、人生を諦めて神に仕えるという、本末転倒の尼僧物語が世界のあちこちにあったのです。
ところが、若い女の性欲は凄まじく、隙を見ては男を引き入れるので、それを揶揄(やゆ)する話が作られました。ボッカチオの『デカメロン』の中で、体を持て余している修道女目当てで、唖(おし)に扮して庭師として潜り込む男の話があります。男は最後には老院長の相手もさせられ、体が持たないと口汚く罵って逃げていきますが、院長は奇跡で口が開いたと触れ回ります。
貞操帯という、これも死語に近いものですが、ヨーロッパの王や貴族が遠征の際に、城や家に残す妻に装着した浮気防止用の器具があります。ルーツは十字軍らしいですが、ヨーロッパ人の性格からして随分前からあったと思います。そこまでしないと妻の浮気は止められない。何だかなーという声が聞こえてきそうですが、五輪期間中に遊ぶ女性選手が山ほどいるから、IOCが避妊具を大量に配っているのです。相手する男だけの責任ではない。
日本でも暴力男から逃げる駆け込み寺として尼寺が機能しますが、僕は宗教は逃げ込む場ではないと思っているので、逃げてきた尼さんにも否定的です。口減らしでも逃げてきた者でも、その根本に不幸がある限り、生命の樹には属していないと考えるからです。
生命の樹とは、最低限として、幸福な者だけが登ることのできる天界への梯子。結婚して不幸になったとか、家庭が崩壊したとか、犯罪に関わったとか、事故で失ったとか、そのような不幸な人の逃げ場所は死の樹にしか無いのです。なぜなら、全てを失っても神を失わなかったら不幸ではないからです。
神の道を説く者は、絶対に幸福でなくてはならない。自分のように幸福になるための道を教えるのだから。不幸な人は不幸な道しか教えられず、従ってその道は死の樹の小路となる。目に光があり、幸福な人は御霊(みたま)が明るい。しかし、修道尼の格好した大半の女は、目が死んで御霊の暗さが顔の暗い表情となっている。偽善で神を裏切っている顔です。このような背徳者に神の道を説く資格はない。
同じことは音楽をやっている人にも言えます。楽器のケースを背負った若くない人も多く見かけますが、やはり大半は暗い顔をして、芸術の世界に生きているという輝きがありません。芸術の本質を知らないから暗くなるのです。芸術とは神を証しすること。それは常に喜びに満ちているのだから。
大指揮者カラヤンは、チャイコフスキーの交響曲第6番『悲愴』をベルリン・フィルとウィーンフィルの両方で録音していますが、1976年録音のベルリン・フィルとの録音より、1984年のウィーンフィルを指揮したものの方が圧倒的に良い。1983年の、女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤー入団のトラブルでベルリン・フィルと疎遠になったカラヤン。その翌年の指揮で、生涯最高の名演を遺した。
管楽器が鳥となってから「天に帰れ」と呼ばうのに、地の弦楽器が下界に引き止めようとする。晩年になって、人生の残りが少なくなって、この世での名残惜しさと、天から招かれる声との間で、本当に一分一秒が貴重な時間となったカラヤン。あるいは、作曲したチャイコフスキーも同じ心境だったのか。それがベルリン・フィル盤にはない美しさと優しさの理由だと思います。でも、天からの呼ばう声がCDから聴き取れたらヤバイのかも。だって、自分も呼ばれているのと同じだから。
エフライム工房 平御幸