コメント欄で書いたのですが、日本という国は古代から呪詛で成り立ってきたところがあります。呪詛で有名なのは丑の刻参りですが、奈良時代や飛鳥時代にも呪詛が行われていたのです。
呪詛の影響力が大きかったので、法律で厭魅(エンミ)を禁じるようになりました。厭魅とは、呪いで相手を病気にしたり殺すことです。厭魅が発覚すれば島流しです。
しかし、最も公に行われながら、それが呪詛とは知られていない呪いがあります。それが南無阿弥陀仏という念仏です。表向きは、阿弥陀如来の功徳に帰依する言葉ですが、だったら南も無も使う必要がありません。サンスクリット語の漢字表記だけなら、ナは名や那でいいし、ムは武や務でも良いのです。
僕がなぜ、南無阿弥陀仏を呪詛の言葉として見るのかというと、それは仏教の成り立ちに理由があります。開祖のブッダ(仏陀)自身は、古代イスラエルのダン族の出身で、それで「ダンの」という意味のダーナーから檀那や檀家という言葉が生まれたのです。しかし、仏という字は分解するとイムで、元々はエフライム族の祖エフライムを指していたのです。
ダン族もエフライム族も、古代イスラエルの分裂後に出来た北イスラエル王国に属していました。初代北イスラエル王国の王がヤラベアム。ソロモン王に反旗を翻した、今で言うリベラル官僚です。ヤラベアムがソロモンの子レハベアムに従わずに、イスラエルは南北に分裂。この時に、祭壇のなかった北イスラエル王国が建てたのが金の子牛を祀る高き所で、ダンとベテルの二箇所に造られました。
仏教は母体がヒンドゥー教ですが、聖牛ミトラの信仰を含めて、ヒンドゥー教は北イスラエルの民がインドに移り住んで持ち込んだものです。ユダヤ教とキリスト教の関係に当てはめれば、ヒンドゥー教が祭司バラモンを頂点とするユダヤ教で、仏教が釈迦を救世主とするキリスト教に位置します。
日本に仏教がもたらされたのは、実はそんなに古くはなく、唐の傀儡国家として仏教を国家統制の中心とした奈良時代になってからです。それまでは戒すら存在しない、仏教的要素を取り入れた原始キリスト教と言うべきもので、だから法隆寺は救世主思想で凝り固まっているのです。
また、奈良時代そのものが、北イスラエル王国の末裔が日本を支配した時代であり、だから天皇の名にエフライム族を意味する武(む)が付くのです。天武や文武や聖武など。天武の兄とされる天智天皇は、近江を拠点にした南ユダ族の残党です。京都もユダ族の秦氏を中心とした南ユダ族の縄張り。
このように、イスラエル分裂後の南北対立が日本で再現されたのが、飛鳥時代以降の度重なる内戦の真相なのです。最も激しかったのが壬申の乱で、北イスラエル軍の勝利した戦いだったので、以降の日本の宗教が北イスラエルをルーツとする仏教一色になったのです。
北イスラエルの勢力は、仏教を利用して、京都を拠点とする南ユダ王国の衰退を謀った。それが、「南ユダを無き者にする」という意味の南無阿弥陀仏という念仏なのです。
偶然か呪詛の力かは分かりませんが、南ユダ王国の末裔が住む京都は災いが続きます。京都の弱体化で、北イスラエルのマナセ族が台頭し政権を奪います。これが源氏による鎌倉幕府です。逆に、南ユダ王国のベニヤミン族の残党・足利氏が政権を握ったのが室町時代。足利はタリとも読めますが、タリとはタタール(トルコ)のことで、聖徳太子もタリシヒコなので、タタール経由の南ユダ王国の王族だと分かるのです。
元々は北イスラエル残党の仕掛けた南無阿弥陀仏の呪詛も、南北朝に分裂した時は、京都を拠点とする北朝の南ユダ王国が呪詛の力を得たのです。南朝は、北イスラエル王国の残党が仕掛けた呪詛が、自分たちを滅ぼす呪詛に変化したことを恨んだことでしょう。最後には自らに跳ね返る呪詛なんてするものじゃありません。
明治時代は南朝の北イスラエル系が復活し、昭和は北朝の南ユダ王国系が再復活した時代。東京遷都自体が、京都を拠点とする南ユダ王国に対する、北イスラエルの反旗だったのです。もっとも、イエスを最後とするユダ族の王が復活する時が、未だに日本で続く南北対立に終止符を打つ時なんですけどね。
エフライム工房 平御幸
呪詛の影響力が大きかったので、法律で厭魅(エンミ)を禁じるようになりました。厭魅とは、呪いで相手を病気にしたり殺すことです。厭魅が発覚すれば島流しです。
しかし、最も公に行われながら、それが呪詛とは知られていない呪いがあります。それが南無阿弥陀仏という念仏です。表向きは、阿弥陀如来の功徳に帰依する言葉ですが、だったら南も無も使う必要がありません。サンスクリット語の漢字表記だけなら、ナは名や那でいいし、ムは武や務でも良いのです。
僕がなぜ、南無阿弥陀仏を呪詛の言葉として見るのかというと、それは仏教の成り立ちに理由があります。開祖のブッダ(仏陀)自身は、古代イスラエルのダン族の出身で、それで「ダンの」という意味のダーナーから檀那や檀家という言葉が生まれたのです。しかし、仏という字は分解するとイムで、元々はエフライム族の祖エフライムを指していたのです。
ダン族もエフライム族も、古代イスラエルの分裂後に出来た北イスラエル王国に属していました。初代北イスラエル王国の王がヤラベアム。ソロモン王に反旗を翻した、今で言うリベラル官僚です。ヤラベアムがソロモンの子レハベアムに従わずに、イスラエルは南北に分裂。この時に、祭壇のなかった北イスラエル王国が建てたのが金の子牛を祀る高き所で、ダンとベテルの二箇所に造られました。
仏教は母体がヒンドゥー教ですが、聖牛ミトラの信仰を含めて、ヒンドゥー教は北イスラエルの民がインドに移り住んで持ち込んだものです。ユダヤ教とキリスト教の関係に当てはめれば、ヒンドゥー教が祭司バラモンを頂点とするユダヤ教で、仏教が釈迦を救世主とするキリスト教に位置します。
日本に仏教がもたらされたのは、実はそんなに古くはなく、唐の傀儡国家として仏教を国家統制の中心とした奈良時代になってからです。それまでは戒すら存在しない、仏教的要素を取り入れた原始キリスト教と言うべきもので、だから法隆寺は救世主思想で凝り固まっているのです。
また、奈良時代そのものが、北イスラエル王国の末裔が日本を支配した時代であり、だから天皇の名にエフライム族を意味する武(む)が付くのです。天武や文武や聖武など。天武の兄とされる天智天皇は、近江を拠点にした南ユダ族の残党です。京都もユダ族の秦氏を中心とした南ユダ族の縄張り。
このように、イスラエル分裂後の南北対立が日本で再現されたのが、飛鳥時代以降の度重なる内戦の真相なのです。最も激しかったのが壬申の乱で、北イスラエル軍の勝利した戦いだったので、以降の日本の宗教が北イスラエルをルーツとする仏教一色になったのです。
北イスラエルの勢力は、仏教を利用して、京都を拠点とする南ユダ王国の衰退を謀った。それが、「南ユダを無き者にする」という意味の南無阿弥陀仏という念仏なのです。
偶然か呪詛の力かは分かりませんが、南ユダ王国の末裔が住む京都は災いが続きます。京都の弱体化で、北イスラエルのマナセ族が台頭し政権を奪います。これが源氏による鎌倉幕府です。逆に、南ユダ王国のベニヤミン族の残党・足利氏が政権を握ったのが室町時代。足利はタリとも読めますが、タリとはタタール(トルコ)のことで、聖徳太子もタリシヒコなので、タタール経由の南ユダ王国の王族だと分かるのです。
元々は北イスラエル残党の仕掛けた南無阿弥陀仏の呪詛も、南北朝に分裂した時は、京都を拠点とする北朝の南ユダ王国が呪詛の力を得たのです。南朝は、北イスラエル王国の残党が仕掛けた呪詛が、自分たちを滅ぼす呪詛に変化したことを恨んだことでしょう。最後には自らに跳ね返る呪詛なんてするものじゃありません。
明治時代は南朝の北イスラエル系が復活し、昭和は北朝の南ユダ王国系が再復活した時代。東京遷都自体が、京都を拠点とする南ユダ王国に対する、北イスラエルの反旗だったのです。もっとも、イエスを最後とするユダ族の王が復活する時が、未だに日本で続く南北対立に終止符を打つ時なんですけどね。
エフライム工房 平御幸
解説をありがとうございましたm(_ _)m
南無阿弥陀仏がそんなに恐ろしい言葉だと知りませんでした。。
最後にはその念仏も意味をなさなくなるのですね…
これから先どうなっていくのか、想像もできませんが、つくづく日本は奥深い不思議な国だと思いました。
掲示板で(T人T) ナムナムと表現されるように、死や滅びや不幸の時に南無と使われるのが現状です。
もっとも、今では南朝鮮が無くなるという、実にメデタイ言葉でもありますが Ω\ζ°)チーン
というニュースが出てました。
http://www.yomiuri.co.jp/economy/20150202-OYT1T50087.html
こちらも、チーン
ウリナラというと昨日の記事。
ソトニコワのマネジャー 「キム・ヨナは韓国でしか人気ない」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150204-00000041-wow-spo
大塚製薬も大塚食品も昔からキムチ臭いです。
和歌山猟奇事件で逮捕された容疑者の父親が高野山大学の教授とのことですが、高野山には「南無阿弥陀仏」の六字名号が刻まれた石碑が数多くあるそうです。
http://www.akb48matomemory.com/archives/1019205066.html
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12115342582
中国では鑑真ゆかりの南端の地で、習近平に追い詰められた江沢民がこれみよがしに吠えました。井上靖の「天平の甍」には鑑真と南無阿弥陀仏のくだりがありますが、フィクションとはいえ気になりました。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/11/post-b5a3.html
中国反腐敗の大波(2)長老の叫び(迫真)
2015/02/04 日本経済新聞 朝刊 2ページ 968文字
中国南端の海南島には南シナ海に臨む名勝、東山嶺がそびえる。1月2日、元国家主席、江沢民(88)は妻と子2人、孫の一族3代を連れて東山嶺の潮音寺を参拝した後、高齢を押して異様な大声で叫んだ。「江沢民がここに来た。意味があるぞ」「私が北京に戻って絶景を宣伝すれば観光客が押し寄せる」
現トップ、習近平(61)の反腐敗の矛先が迫る中、かつて権勢を振るった江派は身動きがとれない。先に摘発された元最高指導部メンバー、周永康(72)も江派の要人だ。100人もの海南省関係者を前に長老はなぜ叫んだのか。「引退後も上海ではなく首都北京に陣取り、影響力もある。慌てるな」。自派の面々へのメッセージが込められていた。標高184メートルの東山嶺に電動自動車で登ったが、帰路は両脇から支えられつつもあえて歩いた。健康の誇示だった。去り際にはこう言い残した。「生きていればまた来るよ」
翌日、地元ネットメディアが報じた長老の久々の生声に共産党内は色めき立つ。誰もが東山に隠居した軍師が年齢を重ねてから再起し、百万の敵軍を破った有名な故事を思い出した。「劣勢の江一族の東山行は習近平への反攻の暗号か」。東山再起の故事によれば今の江蘇省に本拠を置く王朝、東晋が陝西省にいた異民族の前秦に大勝する。江蘇は江一族と周永康の故郷で、陝西は習一族の出身地だ。
不穏さを読み取った習指導部は直ちにネット上の記事、写真の全面削除を指示し、現地でもかん口令を敷いた。間を置かず江派の拠点に攻め入る。「組織は調査を開始する。あなたは全て報告しなさい」。4日、江蘇省南京のトップが突然、会議中に呼び出され、汚職などの調査のため北京に連れ去られた。
2日後、江沢民の長男で通信業界を仕切ってきた綿恒(63)が中国科学院上海分院の院長を突然辞任した。海南島から戻った直後だった。年齢を理由としたが、時期は不自然で「習指導部からの圧力」と噂される。2年後の共産党大会での人事をにらみ集権を進める習近平の標的は江沢民に近い人物が目立つ。
江沢民と同郷の高僧、鑑真も5度目の日本渡航に失敗して海南島に漂着し、東山嶺を訪れた。まさに東山再起の形で6度目に日本に行き着く。鑑真にも思いをはせ、祈ったであろう初詣。南国からの叫びは「遠ぼえ」に終わるのか。泥沼の権力闘争の端緒になるのか。(敬称略)
和歌山の事件はタイミングが凄すぎて驚いています。しかも、犯人の服がタータンチェック。やはりタータンチェックは基本的にやばい人が好む柄です。
高野山は景教碑のコピーがあるので有名で、密教自体がキリスト教の変形と言われています。
鑑真が南無阿弥陀仏を唱えたというのは疑問です。無量寿経などの経典にも阿弥陀仏は出てきても、南無阿弥陀仏が出てくるかどうか。
鑑真が初めて日本に本当の仏教をもたらした功績は大きいですが、それまでイイカゲンな仏教しかなかったという歴史的事実のほうが大きいです。
中国も大変ですね(棒)。特に上海閥は。東山嶺の故事は、宋の時代に北方の金に侵略された時のものですね。中国も北方系民族が強いですから、昔の契丹(きったん=キャセイ)が最終的に支配すると思います。欧米から見ると、今の中国でさえキャセイですからw