今回の問題は、純粋に観察力が試されるものでした。ミケランジェロはなぜ、このように刻んだのか?石膏像でそのように感じられるポイントは一カ所だけです。それは、マリアの頭の後方のベールです。
このベールは、マリアの顔を除いて見ると、向かって右側を向いていることが分かります。マリアから見て、左斜め方向を向いているのです。従って、マリアは今の姿勢の前に、左斜めを見ていたことが分かります。ここから、マリアはベールを脱皮のように置き去りにするほど、強く速く、顔をイエスに向けたことが分かるのです。
マリアの向かって右の顔は怒りが消えていません。それを表すのが、ベールの(向かって)右半分の険しい屹立なのです。まるで、人を拒む冬山の氷の崖のように屹立したベール。実際に描いてみると、極めて異質な感じが否めず、絵画的な処理に困ります。予備校生程度の実力だと、完全に浮き上がるかもしれません。
では、マリアは左斜めに何を見ていたのか?それは回答者が現れたように、左に象徴されるサタンに属す側。イエスを磔刑にした為政者やサンヘドリンと呼ばれた祭司たちです。もっとも、実際の場面では既に居なかったでしょうけど、ミケランジェロはベール一枚でマリアの敵を暗示したのです。
マリアには誤解が多いですが、イエスの激しい気性から考えて、その血はマリア譲りだと考えられます。小柄で強気で目がパッチリしていたマリアは、年の離れた夫のヨセフがカワエーと萌えるタイプだったと思います。そんなマリアが、怒りの矛先を納めて、預言されていたイエスの死を受け入れたのです。それが、向かって左側の魂が抜けたような顔なのです。
このように、ミケランジェロは脱げ落ちそうなベール一枚で、マリアが直前に見ていたものとマリアの動きを表現したのです。モーツァルトが、交響曲第35番の第一楽章で「火の出るように」と演奏の指示を出しているのと同様に、芸術にはパッションが不可欠です。優雅さとか、慈悲深さだとか、美しさだとか、そのような建前のようなマリア像は、ミケランジェロの好みではないのです。ミケランジェロは火の玉の情熱を持つリアリストで、綺麗事の妄想家ではなかったという事です。
エフライム工房 平御幸
このベールは、マリアの顔を除いて見ると、向かって右側を向いていることが分かります。マリアから見て、左斜め方向を向いているのです。従って、マリアは今の姿勢の前に、左斜めを見ていたことが分かります。ここから、マリアはベールを脱皮のように置き去りにするほど、強く速く、顔をイエスに向けたことが分かるのです。
マリアの向かって右の顔は怒りが消えていません。それを表すのが、ベールの(向かって)右半分の険しい屹立なのです。まるで、人を拒む冬山の氷の崖のように屹立したベール。実際に描いてみると、極めて異質な感じが否めず、絵画的な処理に困ります。予備校生程度の実力だと、完全に浮き上がるかもしれません。
では、マリアは左斜めに何を見ていたのか?それは回答者が現れたように、左に象徴されるサタンに属す側。イエスを磔刑にした為政者やサンヘドリンと呼ばれた祭司たちです。もっとも、実際の場面では既に居なかったでしょうけど、ミケランジェロはベール一枚でマリアの敵を暗示したのです。
マリアには誤解が多いですが、イエスの激しい気性から考えて、その血はマリア譲りだと考えられます。小柄で強気で目がパッチリしていたマリアは、年の離れた夫のヨセフがカワエーと萌えるタイプだったと思います。そんなマリアが、怒りの矛先を納めて、預言されていたイエスの死を受け入れたのです。それが、向かって左側の魂が抜けたような顔なのです。
このように、ミケランジェロは脱げ落ちそうなベール一枚で、マリアが直前に見ていたものとマリアの動きを表現したのです。モーツァルトが、交響曲第35番の第一楽章で「火の出るように」と演奏の指示を出しているのと同様に、芸術にはパッションが不可欠です。優雅さとか、慈悲深さだとか、美しさだとか、そのような建前のようなマリア像は、ミケランジェロの好みではないのです。ミケランジェロは火の玉の情熱を持つリアリストで、綺麗事の妄想家ではなかったという事です。
エフライム工房 平御幸
ベールの形、顔の表情、感情、動き、パッション、、、深いと思いました、、、
芸術は深いからこそ、神の領域を代弁できるのです。古いですけど、「女子供の仕事じゃない」という封建的考えにも一理ある世界です。
女は、周りの誰かから褒められようと仕事しますから、神の目を相手にする芸術には不向きなのです。だから、観客という目を意識する世界には強いのですけど。
ベールひとつで……すごいですね。
リアルを見れるようにデッサン頑張ってみようと思います。続けられるようにしたいです。
ありがとうございました。
正しく見るどころか、正しく読むもできてなかったです・・。
捏造すみませんでした。
絵巻の右から左に時間が流れていくように描いてあるってことですよね。
時間軸まで彫刻で表現しているなんてすごいです。
パッション丸ごと表現するには緻密さが必要なんですね。
せめて普段から物事を正面から見るように気をつけます。
デッサンは発見の近道だと思います。ただ眺めるよりも確実にいろいろなものが見えてきます。是非とも続けてください。
たらちりさんおはようございます。
ミケランジェロは、ダビデに左のゴリアテを睨ませています。裏切りのブルータスも左を向いています。
ミケランジェロの凄さが理解できると、彼の繊細さも見えてきます。作品の中に常に人があるという意味では、モーツァルトに似ています。
マリアの怒りはなんとなく理解できる気がします。
一つの像にいろんな場面が含まれているんですね。勉強になりました。
私もデッサン頑張って、ピエタを描けるようになるぞー。
ピエタへの道も幾何形体から。
梱包テープの芯を重ねて、それから白い紙を巻き、最後に円の部分を貼り付けて円筒の完成。
真っ黒になるまで描きこんで、今度は練りゴムで白くする。練りゴムはローラーのように転がしたり、尖らせて白抜きしたり、いろいろと使えます。10時間は一つのものを描き続けてください。
ベール一枚で色んな事が見えてくるんですね。。。
マリアは慈悲深いというイメージがあったのですが、小柄で強気で目がぱっちりとは…萌えてであろうヨセフの気持ちが分かります( ´∀`)
『芸術にはパッションが不可欠』の言葉に、自分にはバレエに対してパッションが足りなかったのかも、と思います。
絵画も舞踊も、姿勢を正して観察するところからやり直しします。
今回の問題は全然ダメでしたorz
自分には観察力が皆無なのか?と凹み気味でしたが、やれる事は沢山あると思うので地道に頑張ります!
今回ピエタをじっくりと(画像ですが)見ていて、良くこんなものを彫れるなと見れば見るほど感心を通り越して怖くなりました。情熱の成せる技なのですね。
マリアほど作られたイメージが先歩きしている人も珍しいのでは。マリア信仰そのものに全く根拠はありません。
芸術というか美というものは、凝縮して搾(しぼ)り出されたもの。美意識を持つ人が増えれば、芸術そのものが発展するのです。人間から芸術を取り除くと、すなわち残った搾りかすは動物と大差ありません。むしろ、動物のほうが純粋なだけマシかも。