平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図

古代史において夥しい新事実を公開する平御幸(Miyuki.Taira)が、独自の視点を日常に向けたものを書いています。

大来皇女の歌

2009-03-14 01:47:01 | 古代史と聖書
 前回の続編です。謀反の罪で死を賜った大津皇子ですが、僕は彼をマナセ族だと解説しています。その根拠は、大津の墓がイスラエル12部族の宿営方向で見た場合のマナセに一致するというものでした。これだけでは根拠として弱いと思われる人も多いと思います。しかし、僕は様々な方向から眺め、その焦点が集まった結果として述べているのです。今回は、その別の方角からの視点を書いてみたいと思います。

 大津皇子が二上山に移葬されて後、姉の大来皇女(おおくのひめみこ)が歌った挽歌ですが、この歌は変な所があります。『万葉集』検索のサイトより↓

 宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見
 うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我が見む
(うつそみのひとにあるわれや あすよりは ふたかみやまをいろせとわがみむ)

 歌というのは、心理的に同じ言葉を繰り返すのを避ける慣わしがあります。しかし、この歌には「我」という言葉が二度も出てきます。原文では「吾」の字ですが、これは「あが」としばしば読まれます。ここから分かるように、ラテン語のエゴと同族なのです。古代ローマ圏で使われたラテン語とは、「埒(らち)が明かない」のラチに原型を見るように、イスラエル12部族=日本人がオリエントにあった証拠の一つです。

 さて、大来皇女の歌にはなぜ「吾」が二度も使われていたのか?それは、前回書いたように、ア・アで上・上を表しているからです。アララトのアル・アルですね。吾・吾で二上に呼応しているのです。また、このことを踏まえれば、「ひとにあるわれや」と読まれている部分も、本当は「ひとなるわれや」だと分かります。原文の「尓有」の部分は、英語などと同じように縮めて(重ねて)、「なる」と読む方がスッキリします。見た目、「ある・あが・あが」だとしつこいですから。

 古代の繊細な表現に慣れると、二上山のある葛城という地名も注目せざるを得ません。というのも、大津皇子は、天智天皇の都があった大津が名前となっています。ここから、天武の子ではなくて天智の子と考える方が自然となるのですが、天智は即位前は中大兄皇子と記され、さらに葛城皇子と記されているのです。葛城の謎は解けていないのですが、中大兄皇子には上ナイルを象徴する「中」の字が使われています。中は、上ナイルの象徴文字で、「大地を貫く水(川)」という意味の古代エジプト語「ヌ・アカ」が原型なのです。

 青ナイルで象徴されたエジプト宰相ヨセフの二人の息子は、三叉の下ナイルで象徴された弟エフライムが「平」なのに対して、上ナイルで象徴された兄マナセが「中」なのです。ここから、天智天皇はマナセ族ということになります。しかし、日本の天皇は、南ユダの王族であるユダ族やベニヤミン族、あるいは北イスラエル王国の王族であるエフライム族などでなくては就くことが出来ません。それで、血統的にはベニヤミンを象徴する「明(みん)」の系譜とされているのです。母親が斉明なのはそのためです。

 このように、大津皇子は天智と同じくマナセ系だったので、エフライムを正統とする、北イスラエル王朝の「武(む)」の系譜の天皇の時代、すなわち天武時代には邪魔だったのです。これが罪無くして殺されたとされる理由です。

 天武は唐の傀儡的な天皇で、唐からの独立は天武の死後14年後の大宝二年(702年)まで待たなくてはなりませんでした。この時代は文武天皇の時代なのですが、僕は文武とは高市皇子の別の姿だと解説しています。高市も墓が見つかっていないという意味では架空の存在です。文武が即位前の軽皇子という名も、「仮の皇子」の暗喩なのです。それにしても、天智と大津に共通する葛城とは何か?謎は謎を呼びますね。

   エフライム工房 平御幸
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