江別創造舎

活動コンセプト
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「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

関東大震災と酪連の誕生

2020年01月22日 | 歴史・文化

 大正12年(1922年)9月の関東大震災が生産者農家を直撃をしました。

 関東大震災の緊急避難的措置として、政府は食糧や建築資材、その他復興資材に対し輸入関税を免じました。
そのため外国から安い乳製品が流れ込み、国内品は販路を狭められ、滞貨の激増に苦しめられました。
これは当然のこと生産者農家をも直撃しました。
乳価の引き下げ、生乳の受け入れ制限など、死活問題となりました。

 具体的に言うと、極東煉乳、森永製菓など国内煉乳工場は輸入品に押され、事業不振に陥りました。不振脱却策は、生産者にも向けられました。
乳価の引き下げ、さらには牛乳検定も厳しいものとなりました。
「大正13年に至って乳の値が下がり、会社の調べが厳重になってきた。景気の良いうちは寛大だったが、不景気になり、一方舶来の良質のものが入って来ると、真っ先に原料乳にあたって来るのは当然のことだった。今までの一等乳が二等になって(1升に4銭の差)、値も脂肪検定 なしに11年1等24銭もしたものが、11もしくは12銭は7銭にもなってしまった(「野幌部落史』五十嵐宗二・談)。

 結果、不合格乳(2等九)が増加、加えて会社から買い取る子牛育成用の脱脂乳は高くなるというおまけもつき、この処理問題は生産者農家を苦境に追いやりました。と、共に、各所で煉乳会社との衝突が目立ちました。

 大正14年4月2日、札幌・石狩支庁において、二等乳の処理問題につき第一回の畜牛家協議会が開催されました。苦境を打開するのは生産者自身の手によるしかありませんでした。
当会で出された対策は、組合による製酪(バター、クリームなど)事業を行うと言うものでした。
実行委員として宇都宮仙太郎他10名が選ばれ、数度の協議会を経て、同14年5月17日、いわゆる酪連(有限会社)北海道製酪販売組合(組合長・宇都宮仙太郎)の誕生をみました。

 専務理事は黒澤酉蔵、役員13人のひとりに江別の藤倉祝八(常務理事)も加わりました。
藤倉は第1回の競技会から実行委員として、酪連の設立に奔放しました。
そして、酪連設立後の14年6月、その江別支部とも言うえべき江別酪農組合を立ち上げました。
しかし、当該組合の歩みは苦渋に満ちたものとなりました。
産業組合精神のもと、云々の、その精神は否定すべくもありませんが、昔からの取引会社との情実、生産者集団の地域エゴ、それに目の前の利益に浮き立つなど、生産者農民の足並みは乱れに荒れました。
設立時の組合員120名から脱落が相次ぎ、やがて昭和8年(1933年)には解散やむなきに至りました。

 関東大震災に端を発した酪農界の危機的状況が、生産者農家の自己防衛組織である酪連を誕生させました。にもかかわらず、その酪連は困難な船出を余儀なくされました。
困難というのは他でもありません。
既存の大手煉乳会社との過激な競争、それに内部の生産者農家の足並みの乱れなど、酪連の助走はぬかるみを歩1歩と進むに似ていました。
それは、また、生産者農民の苦悩の投影に他ありません。


註 :江別市総務部「新江別市市」325-326頁.
写真:極東練乳株式会社野幌授乳所 開設者小田島清治と家族
 同上書324頁写真5ー5を複写・掲載致しております。

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