江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

農業の神様

2020年02月01日 | 歴史・文化

 開拓期にケプロンやダンなどが主導した北海道の農業は、欧米から導入のプラオ、ハロー、カルチベーターなどを中心とする畜耕手刈りの技術体系を特徴としました。
そして、これが全道各地にふきゅうすうるのは、明治40年(1907年)代以降と言われます。
北海道移民が比較的容易に日本の伝統的農具である鋤、、鍬から洋式農具へ転換できたのは、もともと鋤鍬とは関係のな買った旧士族(屯田兵)の入地が多かったことです。
さらに一つは、府県とは比較にならぬ大面積の開墾には、鋤鍬だけでは太刀打ちできぬと、否応なしに納得せざるを得なかったからです。

 その辺りの事情を「巴農場史」が具体的に伝えてくれています。
「大正の初期は、入植した人たちも開拓者と呼ばれるようになり、耕作面積も増えるに従って鍬からプラオが普及しました。
また各戸が農耕馬を飼育し、開墾鍬からみると、何十倍も能率化しました。
それで、当時は農耕馬を農業の神様とし、馬を大切にした。」

 最も、農家における馬の導入が即馬耕の始まりというわけではありません。
それは、入地の土地の条件により著しく異なります。
例えば、大麻<おおあさ>の場合、明治30年代は野幌原始林に連なる大森林地帯でした。
そのため、最初の仕事は伐木し、そのあと巨大な切株の間だけを鍬で起こすという、最初期開墾でした。
この時期の馬は、乗り物として、運搬用として使われました。
馬耕がはじまるのは、耕地が一定の範囲で整理され、広がりを持たなければなりませんでした。

 全道規模ではもちろんですが、江別の中でも地域ごとに、洋式農具の導入には時間差があります。
そのため、一概には言えませんが、12戸屯田や越後村の先駆的な例もあり、江別の場合比較的早かったといて良いでしょう。
耕耘整地(プラオ、ハロー)、除草(カルチベーター)の導入に次いで、脱穀調整の発動機が登場しました。
 旧来の脱穀作業は、唐竿や打ち台を使いました(一部では昭和20年代まで)。
作物ごとにいうと、亜麻や燕麦は両手で握レルほどの大きさに束ね、それを打ち台に叩きつけて脱粒しました。
豆類、粟、ひえ等は唐竿(ぶんまわし)を使います。小麦は束にして穂先に火をつけ、焼いた後に脱粒します。
脱穀作業は根気のいる、変化に乏しい長時間の重労働でした。
この作業に革命をもたらしたのが、大正後期の足踏脱穀機です。
「燕麦、小麦、亜麻の脱穀をした。初めは一人踏み用の小型のものであったが、後に二人踏用になり、打ちつけ時代とは比べものにならない程能率的になった」(『美原70年史』)。

 ここまでが平均的農家の導入状況です。
先駆的に、かなり早い時期に発動機を入れた人の場合を見てみましょう。
美原の藤倉弥五衛門は、30町余の燕麦を作っていたため、大正5年頃に発動機を購入し、脱穀を始めました。その模様は、まさに見ものでした。
道ゆく人や子どもたちは立ち止まり、あるいはしゃがみ込んで長時間見学したといいます。
また、脱穀機は自家の仕事だけではなく、地元はもとより、篠津や江別太など近郷近在に出張し、日銭を稼ぐ働き者でした。

 「渡辺君宅では発動機で燕麦扱いてるさうだ。能率も大変なさうだ」(大正11年9月16日『脇豊勝日記』)。
「午后裸麦落とす。容易に落ちなくて渡辺君宅のように機械で作業なら嘸楽だろうなと思ふた」(大正11年9月24日、同前)。
上記2つの引用は、角山の篤農家として知られた脇豊勝の日記から抜きました。
いかに発動機が垂涎の的であったかが分かるでしょう。
馬が農業の神様であるなら、この時代、発動機も神様か、仏様か、それに近い有難いものでした。

註 :江別市総務部「新江別市史」333-334頁.
写真:2頭引きのプラオ<馬は農業の神様と言われた(『写真集・野幌』)
 同上書334頁写真5ー8を複写し、江別創造舎ブログおよび江別創造舎facebookに掲載いたしております。

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