江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

江別村商家

2019年02月28日 | 歴史・文化

 江別村最初の商家は、江別屯田(明治11年入地)の樋口某の床屋という説がありますが、確認された訳ではございません。
 また、「北海開発事績(地方振興事績調査会/大正10年9月刊)に、明治16(1883)年頃、藤原由蔵が江別駅前で運送業を開始云々と記載されています。あるいは、市街には「4,5年前より34の商法家移りけり」(明治20年8月8日付北海道毎日新聞)とも報じられています。
 これらから推測すると、幌内鉄道の敷き設工事がこの地の商業の端緒となったといえます。

 明治17年には、11年以降入地が進む江別、篠津屯田の共同販売所(現・1条二丁目)が開設されました。
これは、年々増加する両屯田兵の日常生活物資や農具などの供給を目的としたものです。
この頃の市街地の状況につき、北越殖民社関谷孫左衛門の『北征雑録』(明治19年7月30日)は、「午前9時江別ニ著ス(中略)、家竝商店アリ、日用品ヲ鬻ク、津ト背川ニ臨ム戸数20余戸外屯田ナリ」と、街区形成の黎明期の素描を残してくれました。
 また、越後移民の入殖に奔走中の三島億二郎は、23年11月28日付けの『北遊日記』に、次のごとく記しました。
「江別ニ至ル種々買い物スル(中略)江別饅頭、江別団子あり。」

 当時の商家で名前が明らかにされている商家は、明治18(1885)年開業の松丸巳之助(江別まんじゅう)、同23(1890)年8月開業の雑貨商工越後屋、根元徳蔵の江別旅館等,数は少ない。
これは、当時の商業の多くが寄留者としての営みであり、一部を除き泡沫のごとく消えた雑商であったからではないかという見方がされています。

 これらのうち、松丸商店が製造販売していた「江別まんじゅう」は、野幌駅の「煉化餅」と共に知られていました。
 明治36(1903)年、北海道史の泰斗河野常吉は、清国(現中国)から来日した家譲らを旭川、室蘭方面へ案内した時、江別駅で「江別まんじゅう」を買い求め、「これは、江別マンジュウと言います。お口に合うかどうか分かりませんよ」と褒めていました。(「評伝河野常吉」)。
 また、大正に入り、後の洋画家上野山清貢が少年時代を回顧して「江別で一袋買った万十の味は今も忘れられない」(「紅」No.56)と話すなど、長い間江別名物として親しまれました。



註 :江別市総務部「新江別市史」192頁 .
写真:「山サ煉化餅本舗株式会社」
   江別市野幌町8-4


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