江別創造舎

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鉄器文化の浸透

2017年05月29日 | 歴史・文化

 続縄文文化の大きな特徴の一つは、石器に加えて新たに金属器が加わってくることとです。

 現在のところ道内で見つかっている最も古い金属器は、釧路市貝塚町一丁目遺跡の縄文晩期末の墓から出土した鉄片で、アムール川中下流域の初期鉄器時代の文化圏からもたらされたものと推定されています。

 続縄文時代の遺跡では、恵山期の森町尾白内貝塚、石狩市紅葉山33号遺跡、後期江別文化期の町村農場遺跡、札幌市S153遺跡などから刀子(とうす)・鏃(やじり)・短剣などと推定される鉄製品が出土しています。

 このように、続縄文時代に金属器が使用されていたことは確実ですが、まだ種類・量とも少なく、日常の利器は依然として石器や骨角器が主役の座を保っていたようです。
金属器は一次的な生産用具としてよりも、木製品や骨格器など道具の制作・加工に主に使用されていたものと考えられます。
江別太遺跡出土の木製品に見るように、多種多様な木製用具の制作が可能になったことで、サケ漁など生産基盤は一層強固なものとなったのでしょう。

 今のところ続縄文時代に道内で金属器が生産された形跡はありません。
道東の宇津内・下田ノ沢文化には大陸方面から金属器が流入している形跡がありますが、恵山文化〜江別文化に伴うほとんどすべての金属器は、本州の人々との交易によってもたらされたものと思われます。
その交易の対価物として、北海道側から出された最大の産物がサケだったのではないしょうか。

 札幌市K135遺跡では、柱跡とともに226箇所もの焚き火跡が発見されました。
調査を担当した上野秀一は、これらの焚き火跡が日常の調理や暖房の結果としては多すぎるとし、捕獲した酒の余剰分を商品化するために、燻製などの加工作業を行なっていた後との見方を示しています。
焚火跡は、前期江別文化の旧豊平河畔遺跡でも柱跡群とともに、たくさん見つかっています。

 後期江別文化期になると、道具の中で鉄製品の比重が高くなったためか、石器が種類・量ともに激減しています。
(中略)

 後期江別文化の遺構については、土壙墓は数多く見つかっていますが、住居跡は江別市大麻(おおあさ)22遺跡で坊主山3式期と思われるものが一基見つかっているだけで、続く北大式期でも全く確認されていません。
住居跡が発見されにくい理由については、集落がそのれまでのような台地上ではなく、低地に立地することが多くなったこと、あるいは竪穴住居の掘り込みが浅く、本格的な柱も立てられなかったことなどが考えられていますが、いずれも確証はなく、今後の調査に委ねられています。



註 :江別市総務部「新江別市史」36-37頁.
写真:坊主山4式土器
 同上書36頁掲載写真1−10を複写し、江別創造舎ブログおよび江別創造舎facebookに掲載いたしております。



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