江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

後期江別文化の展開

2017年05月10日 | 歴史・文化

 後期江別文化(坊主山式土器群期)には、分布領域を広げ、さらに大規模な遺跡を残すようなりました。

 後期江別文化を代表する遺跡は、坊主山遺跡です。石狩川を見下ろす古砂丘上にあり、1,000基以上の墓が残されていたといわれます。
 昭和初年より河野広道・名取武光・後藤寿一らによってたびたび調査されてきましたが、昭和35(1960)年、この場所に北海道電力の火力発電所が建設されることになり、当時北海道学芸大学教授だった河野広道に率いられた同大学生が同年9月から11月にかけて5回にわたって一部を発掘調査し、その時の出土品が江別市郷土資料館と旭川市郷土博物館に保管されています。

 前期江別文化の広がりは、ほぼ道央部に限定されたものでしたが、後期になると全道一円がその範囲に含まれ、最盛期には東はエトロフ島、北はサハリン南部、南は宮城県北部や新潟県中部まで広がります。東北地方では多くの遺跡から、坊主山式土器が終末期弥生式土器や古式土師器と共に見つかっています。例えば、現在のところ坊主山式土器が出土している遺跡としては南限の新潟県西山町内越遺跡で坊主山3式と弥生末期(幾内第Ⅴ様式)の土器が、秋田県能代市寒川2遺跡の土壙墓で坊主山4式と弥生終末期(天皇山式系)の土器が、盛岡市永福寺山遺跡で坊主山4式と古式土師器(塩釜~南小泉式)が共伴しています。

 北海道でも、坊主山4式土器が出土する小樽市餅屋沢遺跡から天王山式系土器・五領木土師器が、札幌市K135遺跡や江別市元江別10遺跡から天王山式系土器が出土しています。
 江別文化が最も盛行した坊主山4式期の年代は3世紀末から4世紀と考えられています。
 江別文化南下の背景には、3世紀半ばかり8正規前半にかけての気候の寒冷化が指摘されています。古墳寒冷期と呼ばれるこの期間は、過去7,600年間で最も長く厳しいものだったといいます。このため、東北北部では3世紀頃、寒冷化によって稲作が中断を余儀なくされ、弥生文化が衰退し、事項も減少していく中で、その後を埋めるように江別文化を携えた人々が南下してきたと考えれています。

 そうした北海道と東北の交流のあとは、墓制にもみることができます。永福寺山遺跡や寒川2遺跡では、柱穴様のビットや土器を埋設した袋状の掘り込みをもつ土壙墓が発見されています。こうした墓の特徴は、「ウサクマイ葬法」(桜井清彦他『鳥柵舞 USAKUMAI』)と呼ばれる北海道独特のもので、江別でも町村農場遺跡(旧町村農場)や荻ケ岡遺跡で確認されています。
 この頃の北海道には、北からの文化の影響もみられます。サハリンで発生した初期のオホーツク式土器である鈴谷式土器が石狩地方まで南下しています。破片資料が数点だけですが、坊主山遺跡・札幌市K135遺跡・余市町フゴッペ洞窟などで発見されています。
 これらのことから、江別文化が東北地方や南千島へ広がった原因を、鈴谷式土器文化を担う人々のサハリンから北海道への南下に求める見解もあります。



註 :江別市総務部「新江別市史」35-36頁.
写真:坊主山4式土器
 同上書36頁掲載写真1-10を複写し、江別創造舎ブログおよび江別創造舎facebookに掲載いたしております。

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