北京大会と同じ組み合わせとなった女子バレー決勝はブラジルが3-1で米国に逆転勝ちし、2大会連続2度目の優勝を決めた。第1セットを11-25で一方的に落としたブラジルが、第2セットからの3セットを連取した。米国は初制覇を逃し、2大会連続の銀メダルとなった。
ブラジルには関心が高い 。個人的には「北原ミレイ」の歌「石狩挽歌」中にもあるブラジル移民船「笠戸丸」から始まったブラジル日系人の努力と太平洋戦争終結から29年目にしてフィリピンルバング島から帰還を果たした小野田少尉が現在移住しているブラジルに親しみがあるということだ。経済的に破綻していた国がよみがえってきたのである。私はブラジルの経済的」奇跡を長期的にはまだ信用してない部分もあるが、現在のところ経済大国になりつつあることは確かなのだ。
ではまずはブラジルの歴史から振り返ることにする。戦争に継ぐ戦争をブラジルは「自分の力の戦争を繰り返してきた」。
本日の漢方講座はお休みさせていただく。
さてブラジルはラテンアメリカ最大の領土、人口を擁する国家で、面積は世界第5位、南北アメリカ大陸で唯一のポルトガル語圏の国である。ラテンアメリカ最大の経済規模であり、同時に世界で10番以内の経済規模でもある。ハイパーインフレの地獄を乗り越え、近年の経済発展には目をみはる。国の標語は Independência ou Morte! (ポルトガル語で独立か死か!)と過激である。ウイキペディアなどを参考にしてブラジルの歴史を紐解くと、自分のあまりの無知ぶりに驚愕する
先コロンブス期
ベーリング海を渡って南下したアジア人が住んでいたとされるが詳細は知られていない、
ポルトガル植民地時代
1500年にポルトガル人のペードロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」すると、以降ブラジルはポルトガルの植民地として他の南北アメリカ大陸とは異なった歴史を歩むことになった。1502年にはイタリア人のアメリコ・ヴェスプッチがリオデジャネイロ(1月の川)を命名した。
初期のブラジルにおいては新キリスト教徒によってブラジル木(ぼく)の輸出が主な産業となり、バイオリンの弓材や赤いスオウの色素(ブラジリン)の原料とされた。 このために、16世紀中にブラジルと呼ばれるようになった。1549年にはフランスの侵攻に対処するために、初代ブラジル総督が着任した。
1580年にポルトガルがスペイン・ハプスブルク朝と合同すると、ブラジルはオランダ西インド会社軍の攻撃を受け、北東部の一部がネーデルラント連邦共和国(エン現オランダ)に占領された。オランダが撤退したのは1661年のことだった。
一方、パウ・ブラジルの枯渇後、新たな産業として北東部にからサトウキビが導入され、砂糖プランテーションで働く労働力としてまずインディオが奴隷化された後、インディオの数が足りなくなると西アフリカやアンゴラ、モザンビークから黒人奴隷が大量に連行され、ポルトガル人農場で酷使された。
ブラジル内陸部の探検は、サンパウロの奴隷狩りの探検隊により、17世紀に始まった。奴隷狩りの探検隊は各地に遠征して現在の都市の基となる村落を多数築いた一方、南部やパラグアイまで遠征してイエズス会によって保護されていたグアラニー人を奴隷として狩った。こうした中で、激しい奴隷労働に耐えかねた黒人奴隷の中には逃亡して奥地にキロンボと呼ばれる独立国家を築くものもあり、その中でも最大となったキロンボ・ドス・パルマーレスは全人種の黒き指導者と呼ばれたパルマーレスのズンビーによって指導され、バンデイランテスによって1696年に征服されるまで独立国家として存続した。
一方、1680年にポルトガル植民地政府は、スペインとのトルデジーリャス条約を無視してラ・プラタ川の河口左岸のブエノスアイレスの対岸にコロニア・ド・サクラメントを建設したため、以降バンダ・オリエンタルの地は独立後まで続くブラジルの権力とブエノスアイレスの権力との衝突の場となった。また、南部ではラ・プラタ地方のスペイン人の影響を受けて「ガウチョ」と呼ばれる牧童の集団が生まれた。
スペイン ポルトガル間 トルデジーリャス条約(1496年)とは?
1492年、クリストファー・コロンブスが西インド諸島に到達し、帰還したことによって、ポルトガル・スペイン両国において「新世界」への冒険的航海がブームとなった。しかしコロンブス以前から、船団の到達先において両国はしばしば争い、抜本的な解決策が求められていた。
すでに1481年に布告された教皇の回勅で、カナリア諸島以南の新領土はすべてポルトガルに与えられると定められていた。ところが1493年になるとスペイン出身であった教皇アレクサンデル6世が自国に便宜をはかろうとし、カーボベルデの西わずか100リーグの地点を通過する教皇子午線に、それより東側はポルトガルに優先権を認めるにせよ、西側の土地はすべてスペイン領にするという回勅を布告した。西方への航海熱が高まっていた時代、当然ポルトガルのジョアン2世にとってこの裁定は面白くなかった。
そこでジョアン2世はスペインのフェルディナンド2世と直接交渉してこの決定をくつがえし、境界線をさらに西側(結果的には教皇子午線よりさらに270リーグ西側)に移動させようとした。それによって「アジア」におけるスペインの影響力を抑えようとしたのである。こうして1496年スぺインのトルデシリャスで改めて結ばれたのがトルデシリャス条約であり、この条約を教皇が承認することで1493年の回勅を無効化することができた。トルデシリャス条約は1506年にイタリア出身のユリウス2世によって廃止されるまで有効であった。
スペインはこの条約のおかげでアメリカ大陸の全域で優先権を持つことができた。 ただ、現在のブラジルにあたる領土は1500年にポルトガルの探検家ペドロ・アルヴァレス・カブラが到達したため、ポルトガルに与えられた。この条約はアジアにも適用されると考えられていたが、経度の厳密な測定が困難だったこの時代にはアジアにはどのように適用されるのか不明で、再度の論争が起こることになった。ただ、この条約についてスペインもポルトガルも過度にこだわった様子はなく、アメリカ大陸にポルトガルが植民活動をおこなうことをスペインも黙認している。
フランス、イギリス、オランダといった国々はこの条約によって領土獲得の優先権から締め出される形となった。 この状況を打破するには、スペインやポルトガルの船団に対して海賊行為をおこなうか、教皇の決定を無視するかという選択肢しかなかった。こうして新領土獲得から締め出された国々の心情については、フランス王フランソワ1世のものとされる「(新領土から締め出される根拠とされた)アダムの意志とはいったい何か?」という私にとっては理不尽としか思えない言葉が残されている。
1982年にイギリスとアルゼンチンで勃発したフォークランド紛争の際、フォークランド諸島領有の根拠としてアルゼンチンはトルデシリャス条約を持ち出しており、敗戦後も現在まで同諸島の領有を主張し続けている。
18世紀にはミナス・ジェライスで金鉱山が発見されたためにゴールドラッシュが起こり、ブラジルの中心が北東部から南西部に移動し、1763年にはリオデジャネイロが植民地の首都となった。ゴールドラッシュにより、18世紀の間に実に30万人のポルトガル人がブラジルに移住し、金採掘のためにさらに多くの黒人奴隷が導入された。
ブラジル初の独立運動 はミナスの陰謀といわれた。バンダ・オリエンタルを巡るスペインとの衝突の後、18世紀末には啓蒙思想がヨーロッパから伝わり、フランス革命やアメリカ合衆国の独立の影響もあり、1789年にはポルトガルからの独立を画策した「ミナスの陰謀」が発覚し、首謀者が処刑された。
その後、ハイチ革命の影響もあってクレオール白人やムラート、クレオール黒人(クリオーロ)による独立運動が進むも、植民地時代にはブラジルに教育機関である大学が設立されなかった。そういった知的環境の不備により、ブラジルの独立運動は一部の知識人の「陰謀」に留まり、大衆的な基盤を持つ「革命」にはならなかった。このことは、ブラジルとイスパノアメリカ諸国の独立のあり方の差異に大きな影響を与えた。
イスパノアメリカとは?
スペイン語話者が居住しているアメリカ大陸の国家を表す厳密な地域区分である。これら諸国は重要な文化的共通性を相互の諸国とスペインと分かち合っており、これらはかつてスペインの植民地だったことによる。これら諸国では、スペイン語は国民大多数の主要言語か、グアラニー語、ケチュア語、アイマラ語、マヤ諸語、ナワトル語、マプーチェ語などと共に一つ以上のインディオの言語と共に使用される言語となっているローマカトリック教が支配的な宗教である地域でもある。
「イスパノアメリカ」の用語は、イスパノアメリカとブラジルからなる「イベロアメリカ」と対照を成し、ポルトガル語圏アメリカは「ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化」とほぼ同意である。「ラテンアメリカ」とはフランス語圏アメリカ諸地域(ハイチ、マルティニーク、グアドループ、ケベックなど)を含むために区別される。
ブラジルの独立
ナポレオン戦争により、1807年にフランス軍がポルトガルに侵攻した。このためポルトガル宮廷はリスボンからリオデジャネイロに遷都し、以降リオの開発が進んだ。1815年にリオデジャネイロはポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国の首都に定められた。
ポルトガル政府はバンダ・オリエンタルのホセ・ヘルバシオ・アルティーガス率いる連邦同盟との戦いを進めてバンダ・オリエンタルを支配下に置き、征服した地域にシスプラチナ州を設立した。
1820 年ポルトガルを自由主義的な立憲君主制国家に変革しようとする革命が起こり、リオデジャネイロのジョアン6世に帰国を要請した。1821年にポルトガル宮廷はリスボンに帰還したが、摂政として残留したブラガンサ家の王太子ペードロをジョゼー・ボニファシオを代表とするブラジル人勢力が支持したこともあり、1822年9月7日に「イピランガの叫び」をあげて、ペードロが皇帝のペードロ1世(在位1823-1831)に即位する形でブラジル帝国がポルトガルから独立を宣言した。
帝政時代とその崩壊
ブラジルの独立はブラガンサ家の皇帝という求心力があったために、解放者シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン=マルティン、ミゲル・イダルゴらの掲げた共和制や立憲君主制の思想が求心力とならなかった。イスパノアメリカ諸国が分裂したのとは異なり、広大なブラジル植民地は単一のまとまりとして新たな主権国家を形成した。しかし、このことは植民地時代からのエリート層が独立後もそのまま権力を握り続けることをも意味していた。
このため、帝政時代は当初から各地方の中央政府に対する反乱や、共和制を求める自由主義者の反乱が勃発し、1820年代には北東部のペルナンブッコ州では赤道連盟の反乱が、最南部のシスプラチナ州では東方州のリオ・デ・ラ・プラタ連合州復帰を求めた33人の東方人の潜入により、シスプラチナ州を巡ってシスプラチナ戦争が勃発した。シスプラチナ州はイギリスの仲介によって1828年にウルグアイ東方共和国として独立した。
1831年にペードロ1世が退位するとさらに地方の混乱は増し、最南部のリオ・グランデ・ド・スール州では牧場主とガウーショが反乱を起こし、ファラーポス戦争が勃発した。
1840年にペードロ2世が即位すると事態は落ち着きを見せ、1848年のプライエイラの反乱を鎮圧した後に、ブラジル史上初の安定期が訪れた。ペードロ2世は領土的野心を持っていたウルグアイ、パラグアイへの介入を進め、その結果として1864年にパラグアイのフランシスコ・ソラーノ・ロペス大統領はブラジルに宣戦布告し、パラグアイ戦争が勃発したが、カシアス公率いるブラジル帝国が主体となった三国同盟軍はパラグアイを破壊した。
一方、独立後も大農園主の意向によって奴隷制は維持され続けたが、アメリカ合衆国の南北戦争後は西半球で奴隷制を採用する独立国はブラジル帝国のみとなったため、三国同盟戦争後からオーギュスト・コントの実証主義の影響を受けた知識人によって奴隷制批判がなされた。三国同盟戦争後に制度的に確立した軍の青年将校達は実証主義思想に影響を受け、次第に奴隷制の廃止と帝政の廃止をも含めた国民運動が生まれた。この運動により1888年に黄金法が公布され、西半球で最後まで維持されていた奴隷制が廃止されたが、ペードロ2世は奴隷制廃止によって大農園主からの支持をも失い、翌1889年のデオドロ・ダ・フォンセッカ元帥のクーデターによって帝政は崩壊した。
旧共和国時代
1889年の共和制革命により、ブラジルは帝政から共和制に移行した。この時期にはサン・パウロ州とミナス・ジェライス州で相互に大統領を選出する慣行が生まれた。また、帝政時代からコーヒープランテーションでの労働力確保のためにヨーロッパよりイタリア人、ポルトガル人、スペイン人、ドイツ人をはじめとする移民を受け入れていたが、奴隷制廃止後はさらに移民の流入速度が速まり、1908年にはヨーロッパのみならずアジアからも笠戸丸で日本人移民が導入された。1919年にはパリ講和会議で日本が提出した人種差別撤廃案に賛成するなど人種差別撤廃に前向きであった。
第一次世界大戦に協商国側で参戦した後、1920年代にはカフェ・コン・レイテ体制への批判が高まり、青年将校達が各地で反乱を起こした。直接は国政に大きな影響を与えなかったが、間接的に1930年代の政治状況を用意することになった。
写真 笠戸丸と船上の日本移民
ブラジル移民船だった笠戸丸は、後に売却されて漁船として日本海北部などで操業した。蟹工船として使われたという説もある。なかにし礼作詞「石狩挽歌」に歌われたのは北洋で漁をしていた笠戸丸である。北原ミレイの歌唱力はすばらしい。キリスト教的「懺悔」ではないだろうが、阿久悠作詞「懺悔の値打ちも無い」には、彼女の歌唱力に脱帽するは勿論のこと、キリスト教徒でない私には「する必要の無い懺悔はもともと値打ちなし」という逆説的な意味の「へそ曲がりの開き直り」でもあり、痛快さすら感じる。そもそも東洋には神に懺悔などする習慣は無い。笠戸丸は、「第二次世界大戦終戦直前」に日ソ不可侵条約を破って参戦したソ連の攻撃(砲撃か雷撃かは不明)によりカムチャッカ沖に沈められた。
ブラジルのヴァルガス時代へと続く、、、
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