永野宏三のデザイン館&童画館  アート日和のできごと

イスラエル国立美術館、ミュンヘン国立応用美術館、国立国会図書館、武蔵野美術大学美術館図書館他に永野宏三の主な作品が収蔵。

巷談。

2010-11-13 09:52:49 | 日記・エッセイ・コラム
Aさんと数年振りに会う。Aさんは以前と風貌は変わっていない。車に同乗して小倉へ。用事を済ませて帰りも同乗させてもらう。ぼくのHPの顔写真を見て「若い頃の写真じゃないの」と云われる。
キャビネットから資料を引っ張り出す。無造作に入れているために目的のものにたどりつくのに手間時間がかかる。インターネットで調べものをするけれどどうした加減か開かないのでK君に問い合わせするが不在、とにかくチャカチヤカとクリックしていたら偶然に開く。たぶん初歩的なミスと思われる。
ストップしていた絵の色塗りを再開。スケッチの色に合わせるための色づくりが楽しい。理想としては淡い色に深みをもたせた懐古調に仕上げたい。
夕方ころにちよっとお腹の調子がおかしくなる。水を何度が飲んだらすっきりした感じになる。
夜中に坂口安吾の「散る日本」を読む。氏が戦後の日本を憂うことを書いてあるが、混迷する今の日本の現状にも似て予言しているかのようである。



顔とアウトライン。

2010-11-11 11:01:08 | 日記・エッセイ・コラム
耳にインプットしなければいいものですが、このところニュースではやるせなく暗く重苦しいことばかりが続いています。虚構はいつの時代にもどこにでもあるものですが、安全で明るいに時代にしたいものですね。
4人の似顔絵を描かなければならなくなり、送ってきた顔写真を見て描くのですが写真に忠実に描こうするからか、絵が固くなり伝わるものが伝わらない絵になりました。当然その人たちとは直接会ったことがなくどんな人物かはわからなく、電話で人物像を聞きあらためて描き直すことにしました。こんどは写真は参考までにして閉じ、頭の中で人物像を脹らましてイメージで描くことにしました。表情にユーモアも入れてみました。描いて又あらためて絵と写真を比較確認してみたら、意外といけていました。
見た目ではなくその人物が持っている好みなどの情報が人物像のアウトラインとして絵のかたちになると思いました。



子ども時代の成長記録。

2010-11-08 16:02:57 | 日記・エッセイ・コラム
孫の七五三で神社に詣でました。
神主さんが十人分の子どもたちとその家族をまとめて奉納祈願するのがおもしろかった。日曜日で大安とあってかなりの人数で名前と住所を読み上げてまとめてお詣りするのです。前の一個団体を入れ換えて何とも生産的な神事に神様も忙しいのだと思いました。
日頃、町の中の子どもを見ていて、今の子はませた格好をしていて子どもらしい子どもがいないなあと思っていたのですが、神殿でお詣りする子どもたちは、親がせいいっぱい七五三の装いさせているからか神妙に構えている姿を見ると、結構素朴に見えてかわいいもんです。まだ昭和のいい行事というか昔の風情があっていいなと思いました。
自分の七五三の時はどんなだったかなと思い出してみたのですけれど、まったくその時の状況の記憶がありませんでした。記念の写真は今も手元に残っているのですけれど。頭の後頭部は刈り上げて、前髪は眉毛の上で一直線に揃えて、Yシャツにセーター、半ズボンで緊張してカメラを睨みつけるようモノクロ写真で写っているのが昭和30年の子どもと云う感じが出ています。



川の流れのように。

2010-11-04 13:07:25 | インポート
休日はすこぶるすばらしく快晴の天候に恵まれ、奥さんが街を歩きたいというので付き合って歩きました。
小倉の街は特に中心街はずいぶんと綺麗になった感がありますが、町の匂いというか空気に町の情緒を感じることができなくなったような気がします。そして街のエネルギーが感じられません。この穏やかで静かな街がかえって喧噪もなくいいのかもしれません。まばらに不規則に高層建築物が空に向けて顔を出しているのが街のデザインとしては気になるところですが。
紫川に沿って川上に向って歩いてみました。ところどころの岸には魚釣りしている人々の姿がありました。ハゼやスズキが釣り竿に上がっていました。川を眺めていると何かボケーッとした気分になるものです。空を見上げてものんびりしているし、結構想像が涌くし、川からの風に五感が冴えてきます。なぜか川の向こう岸に行ってみたい気になります。橋を渡っていくという手段ではなく、川面を渡りたいという気になります。要するに川を感じてしまうという感覚です。
昨今エコがいろんな場面で提唱されていますが、それはエネルギーやゴミ処理・リサイクルなどの企業活動によるビジネスとしてのエコであり人工的なエコのような気がします。ほんらいエコとは自然ということでしょうから、自然と共生するということなのだと思います。街の中の川に穏やかさを感じるということは川には情が流れているとなのだと思いました。



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川面。〈C〉永野宏三・ひろみプロ



ロック。からだの奥深く、そして血の流れが眼を覚ます。

2010-11-02 07:14:09 | 日記・エッセイ・コラム
久しぶりにTVを観ました。22時30分からの衛星放送“ロック誕生”シリーズを観るためであります。昨晩は日本のロックの創成期編でした。フラワートラベリンバンドなど懐かしくモノクロ映像でコンサートの様子が流されていてました。
ロックコンサートと云えばその昔は野外コンサート。観衆はのりのりでロックにあわせて踊りまくっています。フォーク畑ですけれど魂の詩を唄う遠藤賢司さんのコンサートも映像で流れていました。
あの頃は音だけでなく人のエネルギーがすべてにあったような気がします。今の時代はどちらかと云えば小ぢんまりと納まってしまって決められた枠の中で動いているような感じがします。主張はただ声高に叫ぶだけの独白と云うかモノローグで終る時世になってしまっているような気がします。特に政治の世界でそのような感じをうけます。
1970年代のロックシーンはロックが媒体となって、濃密なコミュニケーションを醸し出す対話というダイアログで独特のカルチャーの時代があったと思います。