かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠358(中欧)

2017年12月07日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠50(2012年3月実施)
   【中欧を行く 秋天】『世紀』(2001年刊)91頁~
   参加者:N・I、K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
       T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:崎尾廣子
   司会とまとめ:鹿取未放
   
358 ただ白き雲の平を見るのみにウラル越えボルガ越え行く天の秋

          (まとめ)
 飛行機の下は白い雲が広がっていて、ウラルもボルガも下界は見えなかったのであろう。その白い雲が平らに一面にどこまでも広がっている様子を「天の秋」と季語ふうにとらえている。ウラル山脈やボルガ川をしっかりと見たかったのに、とやや惜しむ気持ちもあるのだろう。ちなみに、シベリアという呼称は、狭義にはレナ川より東を、広義にはウラル山脈より東をいうらしいので、広義のシベリアともこの辺りでお別れである。(鹿取)


     (レポート)
 外国への旅はやはり旅客機に頼らざるをえないであろう。遠路であればなおさらである。しかし一度雲の上に出てしまうと乱気流などに巻き込まれない限り飛行は単調である。もくもくとわいている雲を見るのみの時間である。この飛行の中にあっても見落とすもののない目を感じとる。「ただ」と「平」と「に」に単調さが滲み出ている。特に「に」には目的地へ確実に向かっている飛行時間の長さが感じ取れる。この「に」が4句に掛かり10音に表わされている広大なウラル山脈一帯、大河ボルガ越えがぐっと近寄ってくるように思われる。雲の上、そこも天であり、宇宙である。天の秋の色にはどんな色がまじりあっているのであろうか。旅に浸りきっているであろう時間を想像する。(崎尾)
  ウラル:ソビエト連邦の旧行政地域の一。ウラル山脈一帯
  ボルガ川:ソ連、ヨーロッパロシアの三分の一を流域とする大河。全長3690キロメート
       ル。水源はバルタイ丘陵で、カスピ海に注ぐ。ボルガ運河で黒海と連絡する。
       (言泉 小学館)

※レポーターは古い辞典を参照されているので、ソビエト連邦、ソ連という呼称になっています。
(鹿取)

         (当日発言)
★「天の秋」とはどういう状況か。飛行機の周辺のことか。(T・H)
★「天の秋」は、秋天の和語的な言い方でしょう。「ウラル越えボルガ越え」は、飛行機が越えた
 のを機内の地図か旅の本で確認したのであって、ウラルやボルガを作者の目で見ている訳ではな
 い。ウラルやボルガの上には「ただ白き雲の平」が広がっていたから見えなかったはずです。
        (鹿取)
★想像では難しいのではないか。ウラルは見えたのではないか。ボルガもちらちらと見えたかもし
 れない。(藤本)
★見えた根拠は何ですか?どこにも見えたとは書いてないけど。見えなかったから「ただ白き雲の
 平を見るのみに」と表現したんでしょう?この歌のねらいも面白さも、ウラルやボルガを越えた
 んだけど私は白い雲を見ていただけだった、というところにあると思います。見えたら、雲の切
 れ間からウラルやボルガがちらりと見えたと詠うでしょう。飛行機の前方画面に今どこを飛んで
 いるか印しが出ていますよね。それを見れば今ウラルの上、ボルガの上を飛んでいることは分か
 る。私がロシアへ行った時、歌集にも載せなかった下手な歌だけど、〈うたたねの間にいくつの
 川を越えたのかエニセイ、オビと聞けばゆかしき〉と歌った。もちろん眠っていたので、エニセ
 イ川もオビ川も見ていない。それからレポーターのいう退屈は違うと思う。また、「に」は格助
 詞ですから、そこに飛行時間の長さを感じ取るのは無理です。(鹿取)


馬場あき子の外国詠357(中欧)

2017年12月06日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠50(2012年3月実施)
   【中欧を行く 秋天】『世紀』(2001年刊)91頁~
   参加者:N・I、K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
       T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:崎尾廣子
   司会とまとめ:鹿取未放
   
357 アムールを越えてはるかに飛びゆくをあなさびし人恋ひて降(お)りゆける鳥

        (まとめ)
 「ハバロフスクの上空に見れば秋雪の界あり人として住む鳥は誰れ」に続く歌。アムールはハバロフスクをも流れている川だから、ハバロフスク上空からアムール川が見えているのである。一面の雪景色の中、川だけがぽっかりと黒く流れているのだろう。アムールを越えて飛ぶのは、この歌では鳥ではなく作者達を乗せた飛行機であろう。渡り鳥たちが羽を休めるために地上に降りてゆくのを見下ろしているのである。当日発言にあるはぐれた一羽の鳥だと飛行機のスピードから目撃するのは難しいだろう。
 前の歌の「人として住む鳥」の気分を受けて「あなさびし人恋ひて」と思うのは作者の鳥たちへの優しさである。この鳥たちは人間を恋いて地上へ降りてゆくのだと思うのは自分自身のそこはかとない旅の寂しさが反映しているからだろう。(鹿取)


            (レポート)
 飛行機に乗ってしまうと目的地に着くまでは人はままにならない時間を過ごさなければならない。少々の飽きを感じているのであろう。3句の「を」の一音にそんな思いが伝わる。ふと目にした鳥と自身の今を対比しているのかもしれない。しかし下の句で鳥の宿命を余すところなく表している。人里近くに羽を休め餌をもとめなければならない鳥への心寄せを感じる。また人を恋う思いは人間の性でもある。鳥にこの人の性を重ねているのであろうか。辞書によるとアムールは「黒い川」とある。この鳥はかささぎであろうか。はぐれた一羽なのか。「人恋ひて」がこの歌の心となっている。さらに降りていく鳥の姿が際やかに浮かんでくる体言止めも印象深い。(崎尾)
  アムール川:ソ連と中国の国境付近を流れる大河。モンゴル北部のオノン川を源流とし、東流
        してタタール海峡に注ぐ。全長4350キロメートル。黒竜江。

※レポーターは古い辞典を参照されているので、現在のロシアがソ連という呼称になっています。(鹿取)

     (当日発言)
★アムール川を越えてゆくのは、ここでは飛行機。(慧子)
★はぐれた一羽だからこそ、この歌ができた。(N・I)
★上の句が飛行機なら、下の句の降りて行く鳥は一羽ではないだろう。(鹿取)
★評者は「かささぎ」と書いているが、かささぎはシベリアにもいるのか。(曽我)


馬場あき子の外国詠356(中欧)

2017年12月05日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠50(2012年3月実施)
   【中欧を行く 秋天】『世紀』(2001年刊)91頁
   参加者:N・I、K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
       T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:崎尾廣子
   司会とまとめ:鹿取未放
   
356 ハバロフスクの上空に見れば秋雪の界あり人として住む鳥は誰れ (後編)

 ※以下、ブログを読んでくださった方々からの意見です。
  
           ◆(後日意見)①
とても魅力的な歌。その超常的な魅力はやはり下の句の「人として住む鳥」にある。秋雪の界に人として住む鳥は、神話的で、この世ならぬスピリチュアルなイメージもあります。「人として住む鳥」は誰か。やはり生身の人間ではないのだと思います。飛行機のなかで、シベリアの雪景色を見ながら初めてそんな存在が感受できたのではないかと思いました。鹿取さんのおっしゃるように、シベリア抑留の死者のたましいが重ねられているのかもしれないと思います。(N・U)

           ◆(後日意見)②
 鶴の恩返しの話から解釈するのがいいかもしれない。抑留の話まで広げるのはやはり無理かもしれませんが、そんな鳥が今すんでいるのかもしれないと見下ろしているのではないか。シベリアからやってきて日本で越冬する鶴や昔話へ思いが飛んで、飛行機から物語の世界へきたように見ているのだろうか。ロシア民話の変身譚などを思い出しました。
                       
           ◆(後日意見)③ ロシア文学に出典があるのではないか。(田村広志)

        ◆(後日意見)④
 イシュトヴァーンを調べる段階で、「伝説の鳥」の話に行き当たった。ウラル山脈あたりに住んでいたマジャル民族が西進して住み着いたのがハンガリーの起こりだそうだが、その部族長アールパードをこの伝説の鳥が生んだと伝えられている。初代国王イシュトヴァーンはその子孫にあたるそうだ。飛びつきたい伝承だが、いかんせんハバロフスクとウラル山脈は離れすぎている。
 スウェーデンの童話「ニルスの不思議な旅」も気になる。小さくされてガチョウに乗ったニルスが空の旅をしつつ成長する話で、大江健三郎がノーベル賞受賞の折の講演で引用しているが、これもいかんせんシベリアとは離れすぎている。(鹿取)

      ◆◆(後日意見)⑤(2015年4月)
 先日、NHKで放映された「遠野物語」に関する番組で、馬追鳥(ウマオイドリ)の話が紹介された。ホトトギスに似た鳥で、胸に轡のような型があるという。お話は、奉公人が山へ馬を放しに行くが、戻ろうとしたら一頭足らず、逃げた馬を探し回っているうちに馬追鳥になったというもの。そして深山に住んでマーオー、マーオーと鳴いているらしい。遠野だけでなく近隣に似たような話があり、奉公人が継子だったり、逃げたのが牛だったりといろいろなバリエーションがあるようだ。
 これまで、「鶴の恩返し」、イシュトヴァーンの「伝説の鳥」、「ニルスの不思議な旅」など「人として住む鳥」について意見が出されたり、私自身も考えたりしたが、今回、「遠野物語」を聞いていて、場所が離れていることにはそれほどこだわる必要がないのだと気がついた。
 ハバロフスク上空を飛行機でよぎる時、秋なのにもう雪に埋もれた地が見下ろせた。その時ふっと上記のお話の「人として住む鳥」が脳裡をよぎった。「人として住む鳥」という言いまわしは分かりづらいのだが、哀れさを誘われるかなしい鳥なのだろう。その思い描かれた鳥は、作者が見たと言っているわけではないから雪の積もったハバロフスクに住んでいる必要は無いわけだ。ただ、哀れさの連想からいくとイシュトヴァーンの「伝説の鳥」、「ニルスの不思議な旅」などは消えるかもしれない。この時作者が馬追鳥のお話を思い浮かべたとしてもおかしくはないように思われる。そもそも「人として住む鳥」を特定する必要もないだろう。(鹿取)

 

馬場あき子の外国詠356(中欧)

2017年12月04日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子の外国詠50(2012年3月実施)
     【中欧を行く 秋天】『世紀』(2001年刊)91頁
     参加者:N・I、K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
       T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:崎尾廣子
     司会とまとめ:鹿取未放
   
356 ハバロフスクの上空に見れば秋雪の界あり人として住む鳥は誰れ(前編)

        (まとめ)
 この旅は11月頃のことであろうか。(歌集巻末に載る中欧の歌の初出が総合誌で翌年の1月号である。)冬の早いシベリアにはもう雪が積もっているのが見下ろせた。四句から五句にかけての「人として住む鳥は誰れ」は難解で、さまざまな意見があった。
 一番単純な解釈は、飛行機から見ると一面の雪景色で、その上を鳥が舞っていた。そんな鳥を見ながら、あの中に人間となって住む鳥がいるかもしれないなあと空想している。「鶴の恩返し」などを考えればそれほど無茶な解釈ではない。次の歌が(アムールを越えてはるかに飛びゆくをあなさびし人恋ひて降(お)りゆける鳥)へも自然に繋がるだろう。
 もう一つの解釈は、言葉の外側にシベリアで亡くなった日本人兵士を鳥として悼む気持ちが揺曳しているととるもの。これは「住む」が現在形なので少し無理のある解釈かもしれない。とはいえ、作者はシベリア上空を通る度に抑留された日本人兵士のことが気になるらしく、しばしば歌にしているので、何首か挙げてみる。
 一万七千の高度よりみる白雲の網に捕らはれし初夏のシベリア
『青い夜のことば』スペイン途上の詠
 白光を放つ雲上ひきしまり足下にシベリアの秋ひろがるといふ
『飛種』トルコ途上の詠
 シベリアの雲中をゆけば死者の魂(たま)つどひ寄るひかりあり静かに怖る
 呼びても呼びても帰り来ぬ魂ひとつありきシベリアは邃(ふか)しと巫(ふ)に言はしめき
 魂は雪に紛れてありと言ひて青森の巫の泣きしシベリア
 収容所(ラーゲリ)の針葉樹林に死にしもの若ければいまだ苦しむといふ


      (レポート)
 雪がおおう地が飛び立った旅客機の中で目に入ってきたのであろうか。ハバロフスク、音に勢いのある地名である。広大な原野を想いうかべる初句である。二句、三句の句切れがよくわからない。二句であろうと思われる「秋」がここで静かに立ち上がっている。三句の「雪の界」にこの「秋」が掛かりやや冷たい風の吹く澄んだ雪の界が浮かんでくる。この静けさがあたかも破られるかのように結句の「誰」に目がとまる。やがて来るきびしい季節を知らされるようである。この「住む鳥」はシベリアから日本へも飛来してくる鶴であろう。飛行を続ける中で物語「夕鶴」のおつうが胸の内をよぎったのであろうか。名を名乗っても鶴は鶴である宿命に心を寄せているのであろうと思う。また与ひょうの悲しみに抑留されこの地に果てた兵達の家族の悲しみが重なる。ハバロフスクの秋を詠った印象ぶかい歌である。結句の「誰れ」が宿題を与えられたかのように心にずっしりと残る。
     (崎尾)
  ハバロフスク:ソ連極東地方の中心都市。シベリア東部のアムール川右岸ウスリー川との合流
         点近くにある。シベリア鉄道が通じる。(言泉 小学館 昭和62年版)


     (当日意見)
★「ハバロフスク」はソ連ではなく今はロシアですね。歌の切れ目はこんなふうになると思います。
ハバロフスクの/上空に見れば/秋雪の/界あり人として/住む鳥は誰れ
7・8・5・9・7でずいぶん破調の歌です。レポーターが二句、三句の切れ目がわからないと言われて
 いますが、そこははっきりしています。3句めの「秋雪」は熟語です。「秋/雪の界」ではありません。
 4句が句割れになっています。(鹿取)


渡辺松男の一首鑑賞 2の45

2017年12月03日 | 短歌一首鑑賞

  渡辺松男研究2の6(2017年11月実施)『泡宇宙の蛙』(1999年)
    【夢監視人】P32~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、渡部慧子、A・Y、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆
     司会と記録:鹿取未放

45 蛇なりと思う途端に蛇となり宇宙の皺の片隅を這う

     (レポート)
 「宇宙の皺の片隅」というのは宇宙から地球を俯瞰したとき山脈が皺のようにみえるのを指すのだろうか。木切れをみて蛇だとおもった瞬間にそれは蛇におもえてしまう。人の恐怖心には疑いの真偽を正すことをもおそれ疑いを決めつけて攻撃にでる習性がある。戦争はそうやっておこるのではないだろうか。蛇に人の恐怖心を象徴しているように思えてならない。(真帆)

          (当日発言) 
★真帆さんの意見は恐怖心から蛇ではないものを蛇だと思った瞬間、それは蛇そのものになったと
 言うのですね。私は違う解釈で〈われ〉が蛇を見て、それを蛇だと認めた瞬間〈われ〉も蛇にな
 った。そして宇宙の皺の隅っこを這っている。宇宙の皺は厳密な言い方ではないので限定する必
 要もないと思います。(鹿取)


          (後日意見)
 ところで、この歌の蛇は何なんだろう。ニーチェの描くツァラツストラでは、お供に誇り高い鷲と賢明な蛇を連れている。しかし、ツァラツストラがその名前を借りたゾロアスター教では、善の神は鷲に、悪の神は蛇に喩えられているそうだ。ツァラツストラが善悪両方の神を連れているのは
二元論に対して異を唱える為だと言われている。そうするとこの蛇も悪とか戦争とか関わりなく、狸や化石の石斑魚と同じ線上にあるのだろうか。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞 2の44

2017年12月02日 | 短歌一首鑑賞

  渡辺松男研究2の6(2017年11月実施)『泡宇宙の蛙』(1999年)
    【夢監視人】P32~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、渡部慧子、A・Y、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆
     司会と記録:鹿取未放

44 吾亦紅(われもこう)じくじくっと空間を焦がしていたり 戦争ははだか

      (レポート)
 43番の歌(アウストラロピテクスとして石を蹴りわけのわからぬ悲哀こみあぐ)を受けているだろう。吾亦紅からじゅっと音をたて戦地に焼け焦げになっている人間を連想した。戦争は人を殺め死した裸を地にさらすのだ、アウシュビッツでもヒロシマでもそうであったように。(真帆)


          (まとめ) 
 全ての生き物は丸裸でこの世に投げ出されていて、お互いに食い合うことなしには生存できない。それは植物とて同じである。渡辺松男にある根源的な恥ずかしさの感覚は、この裸で投げ出されている存在の痛みからきているのであろう。そしてこの歌では、吾亦紅が〈われ〉であり、存在するもの全ての代表でもある。吾亦紅はいかにも剥き出しの裸のような花であって、焦げ茶色をしている。「じくっじくっ」の空間を焦がしつつ浸食するオノマトペと戦争の語の繋がりが巧みである。もちろんこの歌の戦争は兵器を使って殺し合うものだけでなく、生存競争も含んでいて、それゆえに一字あけの後に置かれた結句の「戦争ははだか」のあられもない言葉が重苦しくにがい心に響いてくる。(鹿取)


渡辺松男の一首鑑賞 2の43

2017年12月01日 | 短歌一首鑑賞

  渡辺松男研究2の6(2017年11月実施)『泡宇宙の蛙』(1999年)
    【夢監視人】P32~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、渡部慧子、A・Y、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆
     司会と記録:鹿取未放

43 アウストラロピテクスとして石を蹴りわけのわからぬ悲哀こみあぐ

     (レポート)
 連作の中のうたとして読み、作者はいま荒船山かどこかの森にいるのだろうと感じた。自然の調和の中で、知恵をもったアウストラロピテクスであることが無性に寂しくなる。人を万物の霊長などというが内実はその逆で、戦争をおこし人類のみならず万物を滅ぼしてしまいそうな愚かな我々である。「石を蹴」る所作が作者のやりきれない心を巧みに表現していると思う。(真帆)


     (まとめ)
 基本的にレポーターの読みでいいと思うが、アウストラロピテクスは「哺乳類霊長目(サル目)ヒト科」の絶滅した属であり、化石人類の一群である。アフリカで生まれた初期の人類であり、約400万年前 - 約200万年前に生存していたとされる」(Wikipediaより抜粋)なので、現生人類と地続きではない。文字を持たなかったアウストラロピテクスは、どのような思考をしていたのだろうか。この一連、作者の思考は永遠に遊んでいて、ここではふっとアウストラロピテクスになってしまった。石を蹴る行為によって呼び起こされた悲哀は、生きとし生けるものの持つ命に根ざす不安やかなしみであろう。(鹿取)