かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

ブログ版 渡辺松男の一首鑑賞 2の88

2018年08月09日 | 短歌一首鑑賞
  ブログ版渡辺松男研究2の12(2018年6月実施)
    【ミトコンドリア・イブ】『泡宇宙の蛙』(1999年)P60~
     参加者:泉真帆、K・O(紙上参加)、T・S、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:泉真帆 司会と記録:鹿取未放


88 黒内障よりおそろしきことのひとつにておばあちゃんの夢を知らない

  ※○(A)〈おばあちゃん〉の夢などというおよそ現代が注意を払わないものが〈黒内障〉の
   比喩を得て深さを持ち始める。あらゆる物をなぎ倒して前進してきた時代は〈おばあちゃん〉
   の夢などに気づいたら恐ろしい失速を始めるのではないか、この〈夢〉には足元の暗渠のよ
   うな深さが感じられる。(川野)

  ○(E)眼球自体には異常がないのに、失明に至る、おそろしい(静かな、静けさ)の黒内障。
   おばあちゃんの夢を知らない、ということを黒内障よりもおそろしいこととして据えていま
   す。おばあちゃんは絶望しているのでしょうか?いや、そうでもないでしょう。おばあちゃ
   んはもっと淡々としている様子、しかし、おばあちゃんの時間があるところで停止している
   ような感じもします。(K・O)

     (レポート)
※黒内障——元は視力がまったく消失した状態をさした用語であったが、現在は眼底所見または
 他の他覚的所見がほとんどなくて失明している特殊な場合に限って用いられている。

 「黒内障」はここでは盲目の意か。大切なおばあちゃんなのにそのおばあちゃんの夢さえ僕(作者・作中主体)は知らない、まるで失明しているかのように。(おばあちゃんを深く)知ろうとしない僕の愛の欠如を詠ったのか。(真帆)


             (当日意見)
★自分がこのおばあちゃんの夢を知らないことが黒内障より怖ろしいことの一つだと言っている。
 書いてあるとおりに意味を取ることは出来るけど、普通の人はというと語弊があるなら、少なく
 とも私は他人である老人の夢を知らないことをこんなふうな罪の意識みたいには感じない訳で、
 そこが実感をもちにくくて難しい歌ですね。(鹿取)
★私はお婆さんを大切な人だと位置づけている歌と読みました。だから、その人の夢を知らないこ
 とは愛情の欠如のように思って、そこをうたいたかったのかなと。そういう人としての欠如が盲
 目になることよりも怖ろしいと。(真帆)
★真帆さんみたいに取れば、情としてはとってもよく分かる歌になりますね。でも、おそらくそう
 単純ではないだろうと私は思います。川野さんの「現代から忘れ去られたおばあちゃん」という
 時代を絡めたアプローチの仕方の方が、おばあちゃんの夢を知らないことが黒内障より怖ろしい
 ことの一つだと思えるルートとして、私は分かりやすいです。底深くて恐いですけれど。また、
 身内ととると次のミトコンドリア・イブのおばあちゃんが分からなくなりますね。(鹿取)
★そんな深い歌なんですねえ。(T・S)
★確かに『寒気氾濫』で出てきたおじいさんの歌、畑を耕していて汗が土に染みるというような歌
 とは全く違いますね。(真帆)
★あのおじいさんの造型は別の意味で魅力的でしたね。(鹿取)


          (後日意見)
 前の87番歌「畦に座り口あけているおばあちゃん 満州は日の沈む方角」でも引用した私の評論で「そのおばあちゃんの痛切な思いにどうにも擦り寄りがたくある自己の全き他者性であろう。言い換えれば人間の全き個別性でもあろう」と書いている。その他者性、個別性というところを、作者は比喩として黒内障より怖ろしいことの一つだと言っている。そういう迫り方をするところが、いかにも渡辺松男という気がする。(鹿取)


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