かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

ブログ版 渡辺松男の一首鑑賞 2の87

2018年08月08日 | 短歌一首鑑賞
  ブログ版渡辺松男研究2の12(2018年6月実施)
    【ミトコンドリア・イブ】『泡宇宙の蛙』(1999年)P60~
     参加者:泉真帆、K・O(紙上参加)、T・S、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:泉真帆 司会と記録:鹿取未放


87 畦に座り口あけているおばあちゃん 満州は日の沈む方角

※○(A)(……)時代から忘れられた田んぼの畦道に取り残されたおばあちゃんの視線を辿っ
   て見える満州という歴史の彼方の地。夕日のイメージに導かれた満州はおばあちゃんの記憶
   のなかで過去の栄光の地として蘇り惜しまれている。人の心にしまわれた記憶の理不尽なの
   であり、歴史的理解とのズレや溝がおばあちゃんの存在とともに痛ましく浮かび上がる。
       (川野)
  ○(C)(……)満州の地平線に沈む夕日はとてつもなく大きく赤いと聞くが、おばあちゃん
   が畦に座り口をあけて見ているのは、飢えと寒さに耐えて這々の体で引き揚げてきた満州な
   のであろうか。あるいは満州で戦死した夫や兄弟を痛恨の思いで悼んでいるのであろうか。
   この一連で渡辺松男のおののきの目は時代へも戦争へも届いているのだが、彼の意識を占め
   ているのは過去の戦争や引き揚げなど社会的な事象への関心や反省ばかりではない。それは
   この一連がおばあちゃんへの呼びかけの体裁をとりつつ、実は自己確認としてのモノローグ
   の呟きに近いことがよく示している。そこに立ち現れてくるのは、ダイアローグでありなが
   ら、そのおばあちゃんの痛切な思いにどうにも擦り寄りがたくある自己の全き他者性であろ
   う。言い換えれば人間の全き個別性でもあろう。(鹿取)


     (レポート)
 85番歌(おばあちゃんタバコをふかすおばあちゃん紅梅よりずっと遠くを見ている)で「タバコをふかすおばあちゃん」が登場し、いよいよ田舎風な景色である。おばあちゃんはどしりと座って口をあけて何かをずっとぼんやり回想しているようだ。下の句におばあちゃんの満州がある。戦争など語らず「日の沈む方角」というだけで、(戦時下の満州での日々を回想しながら)夕陽を浴びているおばあちゃんが浮かぶ。(真帆)


     (当日意見)   
★川野さんは現代から取り残されたおばあちゃんというアプローチで迫っている。それで満州は過
 去の栄光の地と捉えられる。私が満州を戦争の悲惨な記憶と捉えているのと対照的で面白く思い
 ました。確かに、戦前満州で優雅な暮らしを営んだ日本人はたくさんいましたものね。ところで、
 茂吉じゃないけど、この一連は赤のイメージで繋がっていますね。タバコとか満州の日とか、後

 には火星も出てくるし。85番歌「おばあちゃんタバコをふかすおばあちゃん紅梅よりずっと遠
 くを見ている」は赤という色から選ばれた紅梅かなあと思っていましたが。まあ、次には黒内障
 が出てきますけど。(鹿取)



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