かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

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ブログ版 馬場あき子の外国詠264(韓国)

2018年06月05日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠(2011年1月実施)
   【白馬江】『南島』(1991年刊)78頁~
   参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、T・S、曽我亮子、
        藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:佐々木実之   司会と記録:鹿取未放

           (鹿取注:下の3行はこの章全体の詞書き)     
日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
  ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
       へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。


264 中大兄の三万の軍海を渡り帰り得し数とはにしられず

     (レポート)
 661年1月、斉明天皇は百済復興のため出港。「熱田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」と額田王が詠んだのはこのころである(1月14日)。ついでながら1月8日、太田皇女が、備前国大伯海で皇女を生む、大伯皇女。3月には筑紫磐瀬行宮、4月には朝倉橘広庭宮へ遷宮。

 レポートではここに、『日本書紀』から20行の漢文が引用されている。「テキストクリニーク も終わっていないNETの白文を実之が読み下したもの」との注があった。下の説明に関係があ る3カ所に鹿取が傍線を付した。】(一番下にこの7写真を付けます)


 引用が、長くなった(司馬遼太郎風)。
 『日本書紀』には2万7千という数字が出てくるが3万という数字は出てこない。「万余の兵」と合わせると4万になる。作者が「中大兄の3万の軍」と詠んだ可能性は、まず上の2万7千の概数を採った(戦争中に先生が3万と言ったことも含む。)というものと、作者自ら韓国の遅れた歴史書である『三国史記』(1143年)、『三国遺事』(13世紀後半)に当たった可能性と、なによりも作者が韓国のガイド(後述)から、それらの歴史書、口碑により3万と言ったのを素直に聞いたと考える3つのものがあるであろう。(『唐書』には白村江の記述はない。)

 上に長々と引用したのは「3万」の根拠の確認と、例えば「わずかに何名帰るのみ」という記述が無かったか確認するためである。さすがに『三国史記』、『三国遺事』まで読む気はないがそれは作者も同じであろう。死者数については「赴水溺死者衆(みづにゆきておぼれしぬものおほし)」
とのみある。一見這々の体で帰ってきた兵のことを歌っている。それは悲惨なことであっただろう。白村江の生還者数は書記に記されていない以上永久に知られない。それはともに白村江で死んだ兵の数も分からないということである。この一連は詞書の太平洋戦争を重ねると、ガ島に死に、敵潜に打たれて死んだ、草生し、水漬いた屍を、私は思う。(実之)




                 

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