かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の一首鑑賞  78

2014年03月01日 | 短歌一首鑑賞

 ◆かりんの歌友、左海正美さんが昨日お亡くなりになりました。64歳という亡くなるにはいささか若い年齢でした。〈うし
  の会〉でご一緒した長いつきあいの友人でした。八丈島に勤務していた左海氏を訪ねて、仲間で歌仙を巻いたりドラ
  イブをした(飲み助ばかりなので、方向音痴の私が滞在中ずっと運転手をさせられた)楽しい一夏を思い出していま
  す。あちらでゆっくり美味しいお酒を飲んでください。ご冥福をお祈りします。


          【愁嘆声】『寒気氾濫』(1997年)47頁
                                  参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
                                   レポーター:渡部慧子
                                  司会と記録:鹿取 未放

 
111 公園のじゃまものもなく伸び果てしぶざまなる木を見て帰るなり  

      (意見)(2014年2月)
 公園にゆったり場を与えられて立つ木は、じゃまものもなく、傍若無人に伸びていてぶざまだ。だから見るには見るが、心をおかず帰るということだろう。人間社会の共存のことをかさねず味わいたい。林や森は文字もさることながらおのずから美しい。作者には慣れ親しんだ林の樹々がいつも胸中にある。(慧子)


      (意見)(2014年2月)
 公園は、公共の場であるから、通常それなりの体裁を整えているところが多い。ところが本歌の公園は、「じゃまものもなく」というところから、遊具などの設備もあまりなく、利用者も少ない、閑散とした公園がイメージされる。手入れもされず、アンバランスに伸び放題に伸びた「ぶざまなる」木は、公園全体の象徴のように思えるだけでなく、自由気ままに育った若者の姿のようにも思えてくる。


      (発言)(2014年2月)
 ★鈴木さんと私は全く逆ですね。(慧子)
 ★でも、結句の解釈は同じですね。好きな木なら何時間でもいっしょにいられるんでしょう。
   (鹿取)
 ★私は書いてあるとおりに受け取りました。ぶざまなる木なので一瞥して帰るところはおふたり
  と同じです。あと、公園は整っていようが荒れ果てていようが、そもそも人工的なので作者と
  しては嫌なんじゃないかなあ。若者とのアナロジーはないように思います。(鹿取)  

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