◆かりんの歌友、左海正美さんが昨日お亡くなりになりました。64歳という亡くなるにはいささか若い年齢でした。〈うし
の会〉でご一緒した長いつきあいの友人でした。八丈島に勤務していた左海氏を訪ねて、仲間で歌仙を巻いたりドラ
イブをした(飲み助ばかりなので、方向音痴の私が滞在中ずっと運転手をさせられた)楽しい一夏を思い出していま
す。あちらでゆっくり美味しいお酒を飲んでください。ご冥福をお祈りします。
【愁嘆声】『寒気氾濫』(1997年)47頁
参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
レポーター:渡部慧子
司会と記録:鹿取 未放
111 公園のじゃまものもなく伸び果てしぶざまなる木を見て帰るなり
(意見)(2014年2月)
公園にゆったり場を与えられて立つ木は、じゃまものもなく、傍若無人に伸びていてぶざまだ。だから見るには見るが、心をおかず帰るということだろう。人間社会の共存のことをかさねず味わいたい。林や森は文字もさることながらおのずから美しい。作者には慣れ親しんだ林の樹々がいつも胸中にある。(慧子)
(意見)(2014年2月)
公園は、公共の場であるから、通常それなりの体裁を整えているところが多い。ところが本歌の公園は、「じゃまものもなく」というところから、遊具などの設備もあまりなく、利用者も少ない、閑散とした公園がイメージされる。手入れもされず、アンバランスに伸び放題に伸びた「ぶざまなる」木は、公園全体の象徴のように思えるだけでなく、自由気ままに育った若者の姿のようにも思えてくる。
(発言)(2014年2月)
★鈴木さんと私は全く逆ですね。(慧子)
★でも、結句の解釈は同じですね。好きな木なら何時間でもいっしょにいられるんでしょう。
(鹿取)
★私は書いてあるとおりに受け取りました。ぶざまなる木なので一瞥して帰るところはおふたり
と同じです。あと、公園は整っていようが荒れ果てていようが、そもそも人工的なので作者と
しては嫌なんじゃないかなあ。若者とのアナロジーはないように思います。(鹿取)
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