ガジェットがいっぱい。

私が気になる「ガジェット」をチェック!オブジェクトの種類は問いません。気になる物は、手当たり次第にピックアップします。

システムエンジニア[その12]

2013-12-22 06:23:12 | programming
えー、お題の「システムエンジニア[その12]」です。

ハローワークから紹介された電気工事士の国家資格を取る為に
職業訓練校に通う様になった私は、最初の半年は自転車で自宅から
通学していました。

その時の収入は失業保険から出ていたのですが、
前職の社内システムエンジニアの時の給与が高かったので、
貯金が出来るくらい少し余裕がありました。

職業訓練校では、色んな年齢の方がいました。
若い方で21歳、最年長は65歳でした。

皆さん離職した理由は、リストラにあった方が半数以上を占めていました。

国家資格を取り、次の就職に役立てようと、みんな必死で勉強していました。

かくいう私もなんとかついて行くのがやっとで、とにかく心がけたのは
丁寧な仕事をしようと言う事でした。

早さでは若い方にかなわないので、とにかく丁寧にコツコツと真面目に
訓練を受けていました。

そこで、何人かの友人が出来ました。

卒業してから、電気工事士の仕事を探して、十数社受けたのですが、
全て、年齢で落とされました。

私でさえ落とされるのですから、もっと年齢の上の方は、
仕事自体が無いという悲惨な状態でした。

そこで、私はその友人と一緒に派遣会社に登録に行きました。

しかし、昔の派遣会社と違って、請負派遣という形でしかも短期の職しか
無かったのです。

私は仕方なく3ヶ月更新の短期の派遣工としてアルミサッシの製造工場で
働く事になりました。

その時の手取りで12万円くらいでした。
いわゆるワーキングプアというやつです。

私は派遣が切られない様に必死で働きました。
体重が15キロ程3ヶ月で減りました。

その工場では派遣社員は正社員から、ボロカスに扱われていたのです。
私はそのストレスから、体調を崩し、結局9ヶ月でその工場を辞める事に
なったのでした。

結果として派遣切りに遭ってしまったのです。

それから、何社か派遣会社に登録していたので、そこで仕事を
探してもらっていたのですが、なかなかありませんでした。

私は、ハローワークでプログラマーの仕事を見つけました。
そこを受けて、通う様になったのですが、始めはプログラマーとして
自宅で仕事をやっていい、という話だったのが、何故かパチンコ屋の
新台入れ替えの撤去作業を徹夜でやらされる事になり、
結局うつ病が悪化して、辞める事になりました。

収入も途切れ、貯金も底を着いた頃、役場へ相談に行きました。
生活保護の申請をしようとしたのです。

しかし、役場では、「あなたはまだ若いんだから仕事位あるでしょ」と
言って、いわゆる水際作戦によって2ヶ月程放置されたのです。

私は通っていた病院のドクターに相談したら、すぐにうつ病の診断書を
書くのでそれを渡しなさい、と言われて、それを渡したら、渋々申請を
受け付けてもらう事が出来たのです。

その時の所持金は3千円でした。
もちろん、家賃は3ヶ月滞納で、出て行けと不動産会社から催促が
ありました。

もう、どん底でした。

私は、とりあえずその3千円で、とりあえずコメを買い、
生活に必要の無いパソコンやCDなどを売り払い、5千円のお金を
作りました。

残りの6千円で一ヶ月暮らしたのです。最後の方は水かけご飯でした。
生きるのに必死でした。

ようやく、生活保護が受給され、とりあえず家賃の滞納分を支払い、
手元に残ったのが2万円でした。

8千円で生活したので、とりあえず、電気と水道代、ガス代、電話代で
1万円使い、残りの1万円で食費にしました。

翌月からは、徹底的に予算をきっちり決めて、まずは貯金出来る様に
しようと考えました。

本来、生活保護は貯金はダメなので、タンス預金をする様にしたのです。

やっぱり、何かあった時の為に最低でも5万円くらいは
常に貯金しておきたいと考えたのです。

始めは月に5千円づつ貯めて行きました。

それからは、今後の仕事に必要なノートパソコンを買う為に、
月に2万円貯める事にしました。もちろん食事は自炊です。
食費を切り詰めるとなんとかギリギリやって行ける様になりました。
今は、月に家賃も含めて9万円で生活しています。

その13へ続きます。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿