たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

丹生川(にゅうかわ)その2

2012年01月29日 | 日記

私が生まれ育った飛騨は上古から五穀の実りが薄く、奈良時代にはそれぞれの国は大国、上国、中国、下国の4つの等級に別けられました。飛騨国は下国(げこく)でした。下国9国は大半が島なのです。周りに海のないところは飛騨国と伊賀国だけです。
大宝2年(702)大宝律令が施行され、部役令(ぶやくりょう)に「斐陀国条」が定められ「・・庸調(ようちょう)倶に免ぜよ、里ごとに匠丁十人を黠(てん)ぜよ・・」と、命じられました。当時の人口から里ごとの10人は厳しかった。
庸は、税の一種、決まった労働の代わりに納める絹
調は、みつぎ、物品を納める税   匠は、大工、技術者  丁は、公役の人夫
絹や穀物を納める代わりに大工や職人を都に出仕させよと命じらたのです。

これが今につづく「飛騨の匠(たくみ)」の始祖です。藤原宮などの造営で名を挙げます。
橿原市畝傍駅の近くに国名集落「飛騨町」が現在も存在します。このようにして駆り出された人が住み着いた地、全国の国名集落が奈良盆地にはいくつもあるそうです。道路信号標識に「飛騨町」とあって、明日香村への入り口でもあり、はじめ何でこんなところに飛騨町がと驚きでした。
万葉歌人が詠っています。

飛騨人の真木流すとふ丹生の川 言は通へど船そ通はぬ
(柿本人麻呂 万葉集巻7-1173) 

この丹生川を岩波古典文学全集(万葉集)では、吉野の丹生川と、飛騨の国高山市丹生川町(旧丹生川村)を流れる小八賀川、と二説があるとされ気になっていました。

ということでこの歌の川が、吉野では下社の社前を流れる丹生川か、うんと上流の中社の古代は丹生川といった高見川か、はたまた飛騨の国の小八賀川か(この上流の旗鉾という地にもまた昔は平金鉱山というのがあって)、前から興味を持っていて、吉野の丹生川を見たいと思っていたからです。

歌の意味は、「飛騨人が、山から伐り出した真木(まき:杉の古い呼び方、桧の美称)を、筏に組んで川を流す丹生の川は、川岸から言葉を交わせるくらいの、小さな川なので船は通わない」と歌っているのです。もう一句、

かにかくに物は思はじ飛騨人の 打つ墨縄のただ一道(ひとみち)に
(読み人知らず 万葉集巻11-2648)

あれこれと物思いせず飛騨の人は、ただ一心に墨縄を打ってることよ

川流しした真木に墨縄を打って、柱材にしたり板材にする。飛騨の匠がこうした木工に関して卓越した技術をもっていたことが、大宝令の施行とともに、「斐陀国条」が規定された背景にあったと思われる。と、後で偶然図書館の本で勉強しました。この本が欲しくなってネット通販Amazonを検索し、古本を手にしました。何と新潟県の書店から取り寄せでした。
(出典:京都教育大教授 和田 萃(しとみ)、三重大教授 八賀 晋 基調講演)⇔(「飛騨」 よみがえる山国の歴史 飛騨国府シンポジューム 編者、森浩一・八賀晋 大巧社 1997.8出版」

2年前の高校同窓会は平城遷都1300年を記念し奈良で行った。級友達は翌日の帰路、橿原市飛騨町の藤原宮旧跡をバスで訪ね、地名ともなって残っている地域のコミニティセンターに立ち寄らせてもらい、お茶の振る舞いを受けたらしい。私は手術後のため残念ながら欠席した。

お伊勢参りから神話・古代史と少し勉強しました。どぜう首相がネバー・ネバーと叫ばれる税金は昔も今も厳しいね。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿