たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

楓橋夜泊

2014年08月03日 | 日記

先日の亡妻17回忌の法要ではお坊さんが絽の着物を着て袈裟をかけ、入念な長いお経仏説無量寿経を勤めていただいた。浄土真宗三部経のうち大経である。
その読経の間、床の間の掛け軸を眺めて亡妻を忍んだ。

唐代の詩人・張継の楓橋夜泊(ふうきょうやはく)の一幅の軸である。この軸は妻が亡くなる数年前、自分が生まれた地、満州・旅順に母と二人でノルスタジック旅行に行った。旅順は軍港なので中国は長く外国人を入れなかったが開放し、旅行社が団体ツアーを募集しているのを目にして行って見たいと言った。
まさかのその数年後に亡くなるとは思わなかったが、是非行って来いと勧めた。私は遠慮した。ノルスタジーに浸るのは二人が良いと思ったからだ。妻は長女で次の長男も次女も満州時代にちなむ名前がついている。三女は引き揚げた後の名になっている。
本当は満州で生まれた3人と母とが行くと良かったかも知れね。
その旅行に行く前、旅順に行ったら土産物屋にたいていあるだろうから、“楓橋夜泊“の軸を一幅買ってきてほしいと頼んで、詩詞を書いてメモを渡した。

何故そう思ったか。夜間高校時代の担任の先生が国語の教師で東洋大出身だった。この先生に大変個人的にも目をかけていただき印象もよく、ユニークな授業だった。当時の漢文の授業で教科書にあるこの楓橋夜泊を習った。そして時々夜の教室で皆で朗々と詩吟を謳ったのである。

♪月落ち~カラス啼いて~ェ、霜、天にい~ィ、満つゥ。
江楓の漁火、愁ゥ眠に~ィィ、對すゥ~う。♪
という具合だった。隣の教室は大迷惑だったろう。

そして間違いなく妻は買ってきた。この一幅の軸装はお粗末であるが書体が見事であった。書家の名は崩し過ぎていて私には読めぬが、だれが見ても名筆だというだろう。まず日本人にはどんな名書家でも中国人の毛筆には勝てないだろうと思っている。「書に基本的で大事だといわれる、均衡、均等、安定性、崩し方」非の打ちどころが無い書体です。

    楓橋夜泊  張継(ちょうけい)

月落烏啼霜天満  月落ち 烏啼いて 霜 天に満つ
江楓漁火對愁眠  江楓(こうふう) 漁火 愁眠に対す
姑蘇城外寒山寺  姑蘇城外の寒山寺
夜半鐘聲到客船  夜半の鐘聲 客船に到る

唐代の詩人・張継は、長い船旅の途上にあって、蘇州江楓に一夜停泊することになりました。そこは世にも名高い古刹・寒山寺を擁する景勝の地。張継は深山幽谷の絶景を愛でながらも、深まる旅愁になかなか寝つくことができません。
そんな折、夜半の静寂を突き破るかのように、もの寂しい寒山寺の鐘の音が響いてきます。船中にある張継の旅愁はますます募り、後世に残る名詩が生み出されたのです。

張継は唐時代の詩人で、字は懿孫(いそん)。襄州(しょうしゅう:山西省)の出身で、進士(科挙の合格者)となって宮廷につかえながら、四十七首の詩を謳いました。そして旅の途上で詠じた七言律詩“楓橋夜泊”により、後世まで名を残すことになりました。
詩の大意は「月が沈み、カラスが鳴いて、霜の冷気が天に満ちわたる頃、旅愁で眠れぬ私の目に映るのは、河岸の紅葉した楓と漁船の漁り火のみ、折しも姑蘇(蘇州)城外の寒山寺から、夜半に突き鳴らす鐘の音が、この船にまで聞こえてきたことである」となります。
眠れぬほどの深い旅愁に加え、鐘の音は時刻がまだ真夜中であることを告げるものであり、「ああ、旅先の夜はなんと長いことだなぁ」という詠嘆の想いがしみじみと、実に味わい深く伝わってきます。(トップアートという東京。銀座画商の新聞広告解説を引用しました)

高校のこの詩の授業では外交官・福島種臣のことも習ったがすっかり忘れました。


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2 コメント

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楓橋夜泊 (茉那)
2020-01-27 21:51:24
わたくしもこの掛け軸持っています。
寒山寺で鐘もついてきました。
美しい景色のところでした。

旅順にも行きましたが、そのころはなかなか厳しく「外国人はバスから降りないように」と注意されたところがありました。

奥様はよい旅をされてよかったですね。

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楓橋夜泊 (corona404)
2020-01-28 08:50:46
茉那さんもこの軸をお持ちでしたか。
しかも寒山寺で鐘までついておられたことに驚きです。
この軸はおあさんとの思い出の大事な宝です。
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