たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

好意とか憎悪

2014年06月21日 | 日記

「孟母三遷の教え」というのがある。ご近所で逃げ隠れできない間柄にあって、相性の悪い人がいても、今の世の中孟子の母のように引っ越すわけにはいかない。
ご近所関係のわずらわしさを数日前から、きわどいブログにしてきた。
世渡り下手で人との関わりが苦手、少し酒にだらしなかった当方に、年下の隣人の地域リーダー氏は、目を覚ませてやろうとしたか、私心があって町内総会の役を振ってきた。ところが私に逆ギレされ公共の場で恥をかかされた。
氏はそれを根に持ってさらに憎悪の感情をたぎらせ、事あるたびに過剰に干渉し、チョッカイを出しストーカーまがいなので、今度は「肉を切らせて骨を断つ」挙に出た。これに耐えられず公共の場で、泣いて同情を買う行動に出た。
まあ、何と愚かな住民である自分と、高学歴を自慢する地域リーダーかよと露骨に愚痴った。
Wikiによれば、
“ナルシシズムあるいは自己愛とは、自己を愛し、自己を性的な対象とみなす状態を言う。
転じて「自己陶酔」「うぬぼれ」といった意味で使われることもある。
” 二次性のナルシシズムは病的な状態であって、思春期から成年にみられる、自己への陶酔と執着が他者の排除に至る思考パターンである。二次性ナルシシズムの特徴として、社会的地位や目標の達成により自分の満足と周囲の注目を得ようとすること、自慢、他人の感情に鈍感で感情移入が少ないこと日常生活における自分の役割について過剰に他人に依存すること(注)、が挙げられる。二次性ナルシシズムは自己愛性パーソナリティ障害の核となる。“とある。
(注)”もろさや孤独、劣等感を内面に抱えており、依存対象を必要とする。特定の一人、二人の人間だけにその弱さをみせることもある。”(境界性パーソナリティ障害:岡田尊司:幻冬社)

行動パターンは似ている近くの隣人も、これらの病的ではないことを希望しよう。私とてもだ。(Wikiは自己愛者とは言わないと解説する)
"山口県周南市金峰の限界集落で起きた5人連続殺人放火事件の本質は、いじめ被害者が、「窮鼠猫を噛む」の如く加害者になったところにある。"
自分だって狂わない保証はない。20年ほど前当県のある限界集落で、隣人との不仲で猟銃を持って押し入り、隣人の前で猟銃自殺する事件があった。その何年か前、その家の前の県道沿いの田には隣人を誹謗中傷する立て看板が立ててあり、部下の一人が近くに住んでいたので、その異様さに話題にしたことがあった。

これ見よがしに、子供が来ないうちから横断歩道の真ん中に立ち、ボランティアの自己顕示を誇る地域リーダーには、軽蔑したまま距離を置く。これが10年来の私で、他の人々はそこそこに接してくれている。
好感を持って接すれば相手も好感を持つ「これを好意の互恵性」と学んだ。悪意を持って接すれば「悪意の互悪性」、敵意を以て接すれば「敵意の互敵性」ということになろう。
とにかくこの世には後10年もお邪魔しないのだから、空気のように静かに過ごすことだ。
「・・もし、誰かがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」(マタイによる福音書5‐39)二男が米交換留学の際貰って来た聖書にそうある。
・・but whoever strikes you on the right cheek turn to him the other as well.


仏教講座

2014年06月21日 | 日記

3日前市へお願いした側溝のグレーチングが鳴る補修工事が約束通り今朝始まった。市の悪口は余り書かない方がいいね。よくやってくれた。ありがとう。
「マンホールの方は今朝見たが、1センチほど下がっているので材料を取り寄せ、入り次第補修する」と70歳の親方は朝から汗びっしょり。「こりゃ大分古いよ、よく気が付いた」「カタン、カタンと大きな蓋鳴りがするので頼んだ」と説明した。「今日中に通れるようにするで」ご苦労様です。
今日中はおろか2時間で作業は終わり速乾コンクリートで補修しもう交通解放された。側溝壁には損傷がなくその上の5センチほどのモルタルがひび割れした結果だった。
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昨晩はひさしぶりに仏教講座に行ってきた。少し早く行き過ぎて30分ほど付近を散歩したり、付属幼稚園のお迎えママが3,4歳の園児を境内で遊ばせているのを眺め目を細めた。3歳児は3ヵ月ですっかり園に馴染んでいるようで元気だった。
第120回仏教講座 生きるってどういうこと 真宗大谷派岐阜別院 
お寺の年度は6月が年度末とか、会の終わりに10年経過など報告された。
今回の講師は遠く関東の寺の60歳少し前のご住職さんで、長く本願寺の宗務を務め、20数年前関東の某無住寺の住職として家族とともに入寺されたと紹介された。
テーマは「親鸞聖人の御意」という、仏教概念の深遠をお話しされたが、凡庸な老人頭にはすんなりと入ってこなかった。
今回は幼稚園の保育士たちもなぜか参加せず、聴衆も座布団席50ほどが埋まらなかった。
広いお寺の広間には開け放された戸口からいい風が入り、夜間頻尿で熟睡できない老人には心地よかった。今日もお勤めがあるので座布団椅子はそのままでよいと指示された。
系列の羽島市竹鼻別院の人生講座はご門徒が主催し何十年とつづく先達、岐阜はお寺さんが中心でやっておられる由、聴衆もお寺さんが多い。入場料500円で、私は手次寺から聴講券をいただいた。1枚期限切れになって誰かに差し上げてと受付へ渡してきた。
明日は羽島市文化会館の岐響コンサートの案内がきている。