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日本文化のユニークさ19:縄文語の心(続き)

2011年01月09日 | 現代に生きる縄文
日本列島に住む人々は、縄文時代あるいはそれ以前から何かしら共通の言語を話し続け、現代に及んでいる。これは世界史の中でも稀なことだが、現代の日本人がどこかに縄文的な心性や思考法を受け継いできたのは、太古からの言語の継続性によるところも大きいのであろう。

縄文時代は、中期にすでにひとつの言語的なまとまりが成立していたと言われる。その後、今から二千数百年前に、本格的な稲作技術をもった渡来人が大陸から日本列島に渡ってきた。その渡来人の人口は、縄文人のおよそ2倍から3倍と言われる。しかし、大陸と海峡で隔てられていたためもあり、一度に大量に渡来したのではなく、およそ千年の間に徐々に渡ってきたものと思われる。渡来人が縄文人の文化を圧殺したり駆逐したというよりは、むしろ縄文文化に溶け込み、同化する面が多分にあったようだ。小集団ごとに渡来した人々は、長い年月の間に言語的にも縄文人と同化していったであろう。だからこそ、縄文語が基盤となって日本語が形成されていった。(《関連記事》日本文化のユニークさ03

日本語の歴史的な継続性について少し具体的に見てみよう。まず梅原猛の『日本人の「あの世」観 (中公文庫)』より。アイヌは、近年まで縄文人と同じように狩猟採集をこととしており、東北地方に住み縄文文化の跡を濃厚にとどめていた蝦夷とも深いつながりがあると思われる。それゆえアイヌの言葉を調べることが縄文語の研究のヒントとなるのではないかと梅原はいう。実際に生命や霊を表すアイヌの言葉の六つが、日本語との何らかの関係を示すという。以下アイヌ語‐日本語の順で対応関係を示そう。カムイ‐カミ、ピト‐ヒト、イノッ‐イノチ、タマ‐タマである。アイヌ語のラマトやクㇽも日本語とのある対応関係があるが、説明がやや複雑になるので省略する。

このようなアイヌ民族の魂ともいうべき、生命や霊に関することばが日本語から取り入れられたとは考えにくく、むしろアイヌと現代日本人の共通の祖先である縄文人の言葉が、少しずつ変化しながらそれぞれに受け継がれてきたと考えるべきだと梅原は主張する。

時代は下るが、もう一つ具体例を示そう。金谷武洋は『日本語は亡びない (ちくま新書)』で次のような研究を紹介している。753年から1331年にかけて書かれた日本の14の古典文学作品には「延べ総数」で40万語が使われていた。そのうち使用頻度の多い上位10語(つまり基本語彙)は順に以下のものであった。

 ある、こと、ひと、する、いと、ない、こころ、おもう、みる、もの

このトップテンのうち、唯一「いと」を除いて、他はすべて現代日本語でも基本語彙の上位を占めており、しかもそれらが漢字流入以前の和語であることは、日本語の継続性の一面を示すといえよう。

金谷はまた、日本語を観察すると日本人がいかに「対話の場」を大切にする民俗であるかに驚くという。話し手である自分がいて、自分の前に聞き手がいるという「対話の場」。その場に、「我」と「汝」が一体となって溶け込んでいる。この点に日本文化の基本があるのではないか。日本語の「我」は、けっして「対話の場」から我が身を引き離して上空から「我」と「汝」の両者を見下すような視点を持たない。「我」の視点は常に「いま・ここ」、つまり対話の成り立つ関係性の場にあるというのだ。

これに対して、西洋の考え方は自己を世界から切り取るところに特徴があるようだ。西洋の「我」は、「汝」と切れて向き合うが、日本の「我」な「汝」と繋がり、同じ方向を向いて視線を溶け合わすといえよう。それは、古来からの日本語そのものがそのような発想法をもっているからではないのか。

小笠原泰の『なんとなく、日本人―世界に通用する強さの秘密 (PHP新書)』では、上の事情をもう少し日本語の構造に即して分析している。

欧米人は、個人を自律的なものとみなし、主体的な自我が絶対視される。太陽のように自分を中心にすえる自我モデルでは、IとYouは、相互に排他的で独立的である。社会の役割意識はあるものの、それに完全に同一化することはなく、つねに絶対的自我が優越する。これに対して日本人の自己構造は、相手との関係で変化する相対的なものであり、欧米人のような自分を中心に据えた絶対的なものではない。

これを言語の構造に即して説明すると、欧米言語は名詞中心に独立的、客観的な対象(モノ)として世界を認識する。主観を排除して時間的な推移のよう変化の観念をできるだけ含めない傾向がある。逆に主観は、名詞的に客観的に把握される世界から超然と独立している。

これに対し日本語は、述語(動詞)中心にしており、対象を主観と分離せずに経験する。自我よりも複数の人々の関係によって生じる「場」が優先され、自我よりも「場」が根源的な自発性をもつ。日本語の一人称の多様性(私、俺、僕、お父さん‥‥)や述語の複雑性(敬語等による変化)が示すように、他者との相対的な関係が重要なのであり、それに対応して日本人の自己構造も相対的である。「場」の変化の中で、自我のあり方も出来事(コト)のとらえ方も絶えず変化する。主観は世界を、時間の経過のなかで変化する出来事(コト)として経験し、主観的に身体的に世界に反応する。上で紹介した古典文学の中で使用頻度の高い語彙の2位に「こと」が来るのも偶然ではないだろう。(《関連記事》『なんとなく、日本人』

上のような欧米人と日本人の世界認識に違いは、最近、文化心理学で実験的に明らかにされつつあるようなので、そのうち紹介したい。(『ボスだけを見る欧米人 みんなの顔まで見る日本人 (講談社プラスアルファ新書)』)(今回は、かなりかたい話になってしまったが、この本は具体的な面白い事例が載っていて興味深いですよ。)

《関連記事》
『日本にノーベル賞が来る理由』
今回の話に直接は、関係ないのだが、日本人が英語に弱いこととノーベル賞がとれることとの間には関係があるという話。日本語中心でノーベル賞級の研究ができるという事実、だから日本人が英語に弱いという事実に誇りをもつべきなのだ。

《関連書籍》
大野晋他『日本・日本語・日本人 (新潮選書)

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