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喫茶 輪

コーヒーカップの耳

がん光免疫療法の費用は?

2020-10-31 21:59:54 | がん光免疫療法
9月末に厚生労働省から新薬承認された「がん光免疫療法」だが、最近よくメディアで取り上げられるようになった。
今日の昼にはABCテレビの「中居正広ニュースな会」でも「がんの新たな治療法」と。
ところが治療費について、まだ決まってはいないとしながらも「数百万円」になるのでは?と紹介されていた。

しかし、『がん光免疫療法の登場』という本には、「安価に実施できる可能性」とあって、「十数万円から数十万円程度と考えられる」とある。3年前の本でもあるし、他の高額なオプジーボなどとの関係もあって流動的なのかも知れないが…。
(永山悦子著・小林久隆協力 青灯社刊)
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小関智弘さんのノンフィクション

2020-10-31 09:21:23 | 文学
小関智弘さんの『働きながら書く人の文章教室』にこんな言葉がある。

《…ノンフィクションだから、事実をありのままに羅列すればいい、というものではない。事実を、イメージ豊かに読者に伝えるには、事実を肉付けする豊富なエピソードが必要である。》

《民衆のなかには無数の事実が散乱しているが、それらの事実、民衆あるいは庶民と呼ばれる人びとが経験したものの蓄積は、そのままでは墓場に埋もれてしまう運命にある。それをどう掬い上げ表現するかが、書き手の役割である。》

《数字や資料は、文章の骨格をつくる。エピソードがそれに肉付けをし、血を通わせる。そういう意味でわたしは、とりわけノンフィクションを書く場合にエピソードを大切にしている。》


どれも我が意を得たりの思いがする。

追記
  《エピソードは、その文章の肉付けをし血を通わせるだけではない。エピソードは、書いた本人がそれと気づかない力を、その内側に秘めているものなのだ。(略)読者の想像力を引き出し、その想像力によって育つことができる生命力をその内側に秘めている。(略)その期待や予測を超えるものを書くのが書き手の力量ではないか、と肝に銘じつつ書いた。》

  《他人を語ることは、自分を語ることである。自分というフィルターを通してしか、他人を語ることはできないのだから。》


 《それはともかく、掴みボクロの体験でわたしは、聞き手のプロというのは話を脱線させる名手なのにちがいないと確信した。意識して脱線させようとしてできることではないが、》

  
  《わたしのフィルターは、旋盤工そのものであった。(略)フィルターを通して、そこで濾過して不要なものは捨て、必要なものだけを使う。それをしなかったら、たとえば一人の人生を語ってもらって、それをわずか十五枚や二十枚の原稿に凝縮して書くなんてことはできはしない。》

  《他人を語ることはおのれを語ることであるが、なにかを語らないことがおのれを語っている、ということだってあり得るはずである。取材ノートにびっしり書き込まれた話題のあれこれ、二時間三時間に及ぶ録音テープに吹き込まれた豊富なエピソードや脱線ばなしの数々、そこから何を取り捨てるかは、書き手の選択にまかされているのだから。》


  《町工場ではかつて”一人残業”はさせないという不文律があった。不測の事故に備えてのことである。》
 これはわたしも経験したこと。三年間の町工場勤めで、何度も危険な場面に遭遇した。機械は無情なのである。

  《わたしはかつて一度も、どこかの出版社や雑誌の編集部というようなところに自分の原稿を”売り込み”に行ったことがない。すべては依頼されて書いた。(略)安月給とはいえ、最低の生活は旋盤工で稼げる。原稿料や印税だけで食べていく身だったらそうはいかないだろうなと、そんなときはほっとしたものである。》
  
  《わたしは、工場と書いて「こうば」と読んでいる。「こうじょう」だと、建物と機械がクローズアップされてしまって、そこで働く人たちが点景になってしまうというイメージが強い。「こうば」だと、働いている人間がクローズアップされて、建物や機械はその背景に後退する。(略)主人公は人間だという思いを込めている。》
 このことについては、20年以上も前に拙詩集『工場風景』をお送りした際、「わたしは『こうばふうけい』と読みます」と評して下さったことを思い出した。

  《工場の人たちは口が重いとか、職人はなかなか話をしてくれないなんて言う人がいるが、それはその人の器が貧弱だからにすぎない。人格や教養のことではない。相手の話を受け入れる、容器としての器である。(略)口が重いと思うのは、彼らの心を開かせる手段を知らないにすぎない。》

  《…わたしはそういう人たちの実体験を聞いた。しかしその実体験をそのまま書けばルポルタージュになるのか、といえばそうではない。そのまま書くだけなら、メモやテープを起こして、体験記とすればいい。(略)文章を書くというのは、聞いた話のテープを起こすことではない。実際にその人たちの人生に触れた直接の印象から出発して、さらにもう一歩も二歩も深い現実に踏み込んでいくのが、ルポルタージュやノンフィクションを書く者の役割である。》

  《書き手は常に軟らかな感性を磨き、他人の話を謙虚にそして真摯に受け入れる器となることが必要なのであろう。そうやって書いた文章を、語ってくれた人にお返しする、それが書き手の役割というものであろう。(略)そこに書かれた自分の姿から、何か一つでも新しい自分を発見して頂くことができたなら、それこそ書き手冥利に尽きるというものではあるまいか。》

ここまでお読みくださいましてありがとうございます。
小関さんにご興味を持っていただけた方には、もう少しお付き合いください。
小関さん原作のテレビドラマの話です。
緒形拳さんとのエピソード。感動的です。
←二段階クリック。

←クリック。

←クリック。

どうでしょうか。小関さんのお人柄があふれ出たような文章ではありませんか。


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読書週間

2020-10-31 07:53:45 | 完本 コーヒーカップの耳
今朝の神戸新聞「正平調」です。
神戸新聞さん、拝借お許しを。
←クリック。

今、読書週間なんですねえ。知りませんでした。わたしは毎日、一年中が読書週間みたいなものですので。
この正平調の終わりの方にある言葉。
《ページをめくるのも惜しい、そんな本に出会うときがある。》
これ、どこかで聞いたことがあるぞ、と思ったのです。
そうでした。画家で著述家、装幀家、そしてわたしは書評家でもあると思っている林哲夫さんの言葉でした。
拙著『完本コーヒーカップの耳』を評して下さっての言葉。
《読み終わるのがもったいない読書というのはそうあるものではない。そんな一冊。》と。
氏のブログ、「daily-sumus2」です。
うれしい言葉をいただいたのでした。我田引水、お許しを。
そうだ。林さんにはこんな本があります。
『喫茶店の時代』(ちくま文庫)。
残念ながら「喫茶・輪」は出て来ませんが、このブログと縁があるというわけで。
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