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喫茶 輪

コーヒーカップの耳

木内昇さんの比喩

2023-02-22 12:09:48 | 文学
今読んでいる本。

『漂砂のうたう』(木内昇著・集英社)。
読み始めたときは馴染まぬ言葉が多く、ストーリーも進まず、ちょっと読みづらかったが、読み進むにつれて興味が増してきた。
さすがに直木賞作です。
その時代(明治初期)のその場所(廓)とそこで蠢く人を描いて秀逸といえるのでしょう。
ぽつぽつと出て来る比喩がまた素晴らしい。
さりげなくいい比喩を使っておられる。
今日読んだところではこんなの。
《楼主の声はなお、手の中で碁石を揉むほどの音でしか伝わってこない。》
人の声を「碁石を揉む音」と比喩した例をわたしは知りません。
上手いものですねえ。独特のその場の雰囲気が伝わります。

『触媒のうた』多くの著名文人のここでしか読めない秘話が満載。
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新聞小説「かたばみ」

2022-11-26 19:43:09 | 文学
神戸新聞夕刊の小説を読んでいます。
木内昇さんの「かたばみ」です。
今日はもう285回。



毎日楽しみに読んでいます。
今日は興味深い話が載っていました。
すっかり忘れていた昔のことを思い出しました。
《庭の切り花を学校に持ってきて飾る習慣が、戦後間もなくしてできたのだが》
そうそうそんなことがあったと。小学生のころです。
うちの家では花を育てるということをしてなかったのですが、
クラスメートの中にはそんな家が何軒かあって、かわるがわる持ってくる子がありました。
主に女の子でしたが。
いつも教室を飾っていました。
今はどうなんでしょうね。
多分そんな習慣はないでしょうね。
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結末を読者に委ねる

2022-11-25 09:46:04 | 文学
今朝の神戸新聞「同人誌」欄です。拝借お許しを。
←クリック。
3篇の小説が紹介されていますが、この評を読むとどれも読んでみたくなります。
もし掲載誌を送ってきてくださるなら喜んで読んでみたいのですが。
冒頭に《小説は物語の結末を読者に委ねる。》とあります。
これは詩でも同じですね。同じと言うより、詩の方が重要かとも。
葉山ほずみさんが書いておられますが、毎回このような警句を冒頭に置いておられます。
いつも感心して読ませて頂いていますが、わたしはすぐに忘れてしまっています。情けないことです。
ところでこの葉山ほずみさんのこの欄のことは以前にも
「神戸新聞の同人誌評欄」と題して書いたことがありました。
葉山さん、野元正さんのあとを継いで続けておられるんですね。
今後も楽しみに読ませていただきます。
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文人本人の朗読集

2022-10-28 18:21:19 | 文学
「じろはったん」のカセットテープを聴きたいが、うちのラジカセが故障しているという話を先日ここに載せました。
すると川柳作家の中野さんが今日、持参してきてくださいました。



申し訳なくありがたいことでした。
何十年ぶりかで、森はなさんの朗読の声に接することができました。記憶のなかにあった声よりお若く感じました。これは自分が歳行ったからでしょうか。
これでいいエッセイが書けそうです。
ほかに興味深いCDもお貸しくださいました。
そのうちの一枚を聴きました。
「文人本人の朗読集」というものです。
名前を見ると驚きます。

与謝野晶子、坪内逍遥、室生犀星、萩原朔太郎、佐藤春夫、堀口大学、斎藤茂吉、高浜虚子、西城八十、北原白秋。
凄いですね。
みな聴かせていただきました。
面白かったです。
ほかにも興味深いカセットテープをお借りしてます。
聴くのが楽しみです。
中野さん、ありがとうございます。

『触媒のうた』著名文人の秘話がいっぱい。
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虚子の筆跡

2022-07-22 07:48:34 | 文学
今朝の神戸新聞の「正平調」より冒頭部分。

《正岡子規が高浜虚子を訪ねた。1899(明治32)年夏のことで、当時はまだ貴重品だったアイスクリームをごちそうになっている。活力がわいたのか、そのとき子規が詠んだという句がある。< 一匕(さじ)のアイスクリムや蘇る > 》

子規のものはないが、虚子の直筆がうちにありますのでご披露しましょう。



これはハガキに書かれたもの。
虚子のフアンが往復はがきで署名を求め、その返信です。
こんなに小さな文字、虚子の心が見えませんか?
念のために申しておきますが、これはわたしへのものではありません。
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伊藤信吉さん

2022-07-04 14:14:40 | 文学
読んでいる『星新一』ですが、詩人伊藤信吉さんの名前まで出てきました。
信吉さんから戴いたハガキがあります。





このハガキは2001年に戴いたのですが、信吉さんはその翌年、2002年8月にお亡くなりになっています。
まだしっかりとした文字で、貴重なおハガキですね。

『コーヒーカップの耳』伊藤信吉さんからのハガキは、この本の元になる詩集へのものです。
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小松左京と六年間

2022-06-27 09:31:57 | 文学
毎朝妻は隣のお地蔵さんに掃除に行っている。
そこには毎朝お参りに来る人があって何人かと顔なじみになっている。
そのうちのお一人にH田さんという90歳ぐらいの老人がおられて、近くの老人介護施設に入所しておられる。
毎朝散歩がてらにお参りに来られるのだ。
今朝のこと、妻が帰ってきて言う。
その人がわたしに会いたいと言っておられると。
で、わたしは初めて境内でお会いし、そこで「読んでほしい」とプリントを手渡された。
「小松実君」という題のエッセイ。
10年ほど前に小松左京が亡くなった時(没年2011年)に書いたものだという。
「実」は左京の本名。
幼稚園から小学校卒業まで家が近所(西宮市若松町)で同学年だったというのだ。
ところが覚えていないとのこと。
戦災で集合写真も残っておらず、確かめられないのだと。
H田さんのお姉さんが図書館に勤めておられて(数十年昔の話だ)「あなたは小松左京と同級生だったね」と言われたのを覚えているのだという。
しかし、自分はそのころ文学には疎く小松左京の名前も知らなかったと。
ところが左京が亡くなった時にその新聞記事を見て、改めて思いをめぐらしたとのこと。だけど、彼のことを全く思い出せないというのだ。
文の最後に書いておられる。
《いろいろ考えたが、彼は所謂、今でいうエリートグループで、私は落ちこぼれだったので、あまり接触がなかったからではないか。》
わたしが考えるには、別の理由がある気がする。
それはH田さんには言わないでおこう。
因みにH田さんがわたしに読んでほしいと言われたわけは、拙著『縁起・小墓圓満地蔵尊』を購入して読んでおられて、話が分かる人と思われたらしい。文学には疎いといわれるわりにはしっかりとした文章を書いておられる。
小松左京については、丁度今読んでいる『星新一』に重要な人物として登場している。
そんな話もしようと思ったのだが…。
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康成と初代

2022-04-16 11:20:16 | 文学
『川端康成の運命のひと』、大事に読み進めてきて、いよいよ大詰め。
このページに感動。
←二段階クリック。
本が分厚いので大事なところが読めませんが。
要するに、あまりにも偶然に、康成と初代の墓所が同じところ(鎌倉霊園)に、しかも、初代のお骨を伴っての納骨手続きに行ったその日が康成の納骨日だと。
著者の森本さんもこう書いておられます。初代のご子息、桜井靖郎さんの回想として。
《母は後半生の、思うにまかせぬ日々、心の奥で、自分はかつて川端康成と結婚の約束をした、そしてあれほど愛されたのだ、という誇りが、唯一の支えになっていたのではなかろうか。
そうだとすれば、全くの偶然とはいえ、同じ鎌倉霊園に眠ることになり、その納骨の手続きの日に、川端康成さんの納骨式が行われるのは、偶然を超えた何かがあると思っていいのではなかろうか……。》

わたしもそう思います。
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小島政二郎

2022-02-22 09:14:38 | 文学
今朝の「正平調」。拝借お許しを。
←クリック。
鍋料理の話の中に、文人4人の名前がでてきます。
泉鏡花、小島政二郎、北大路魯山人、そして瀬戸内寂聴。
このうちの小島政二郎の直筆ハガキをわたし所持しています。



たしかに字はあまり上手とはいえませんね。
消印は昭和28年です。
わたしがいただいたものではありません。その時わたしまだ9歳です。

『コーヒーカップの耳』おもしろうてやがて哀しき喫茶店。
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「大和通信」第119号

2021-12-11 13:00:45 | 文学
池田市の中尾さんより「大和通信」119号をお贈りいただきました。
薫り高い文学の話が載っています。



発行は大和郡山市の「海坊主社」となっています。
詩も掲載されていて、たなかよしゆきさんの「コツンの魔法カツンのしあわせ」の中のこの詩文に惹かれました。
《しあわせになるのに大した努力はいらない 杖一本あればいい》

斎藤秀昭さんの文の中の、坪内祐三氏の言葉、《人との出会いってのは、凄いことなんだよ》。そして、《いつ死んでもいい覚悟で仕事をしているんだ》

中尾さんが小島輝正の切り抜きについて書いておられます。
切り抜きといえば最近わたしに思いがけない発見がありました。
宮崎翁から託された書類の束の中に古ぼけた新聞切り抜きがあって、読んでみたら、「うわっ!」というようなものでした。
近いうちに原稿を書いて、どこかに発表します。

『触媒のうた』宮崎翁の文学秘話満載。
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姫路文学館

2021-09-10 08:13:30 | 文学
今朝の神戸新聞に「姫路文学館」のことが。

甲斐文子さんのお名前も。学芸課長さんになっておられる。
二年ほど前には孫の滉もお会いしている。「滉と行った姫路」

姫路文学館へは何度か行っているが、素晴らしい文学館だ。
神戸にも「神戸文学館」という立派なのがあるが、姫路には負ける。圧倒的に撒ける。
芦屋には「谷崎潤一郎記念館」、「虚子記念文学館」が、尼崎には「近松記念館」が、そして伊丹には「柿衞文庫」という文学館が。
しかし、西宮市には、かろうじて「神戸女学院大文学館」というのがあるにはあるが、気軽に入れる文学館は、残念ながら、ない。
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昭和30年代初頭の文学者たち

2021-02-25 15:48:22 | 文学
昭和30年代初頭の文学者のハガキが約100枚あります。
ちょっと並べてみました。



すでに昔色に変色してます。
堀口大学、三島由紀夫、江戸川乱歩、菊田一夫、石坂洋次郎、石川達三、小林秀雄、深尾須磨子、吉井勇、中河与一、吉田健一など。
すべて宮崎修二朗先生から託されたもの。
いずれは、有効に活用していただける施設に寄贈したいと思っておりますが。

『完本・コーヒーカップの耳』
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菊田一夫の年賀状

2020-11-28 08:53:39 | 文学
朝ドラ「エール」が終わってしまいました。
ちょっとした喪失感を味わっております。
最終回にも登場した、池田二郎ですが、モデルは劇作家の菊田一夫。
よく似合ってましたね。
菊田は拙著『触媒のうた』(神戸新聞総合出版センター刊)の249ページに登場します。
その菊田の直筆年賀状がわたしの手元にあります。



「喫茶・輪」が営業中なら、お客様に直接お見せするのですが。
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小関智弘さんのノンフィクション

2020-10-31 09:21:23 | 文学
小関智弘さんの『働きながら書く人の文章教室』にこんな言葉がある。

《…ノンフィクションだから、事実をありのままに羅列すればいい、というものではない。事実を、イメージ豊かに読者に伝えるには、事実を肉付けする豊富なエピソードが必要である。》

《民衆のなかには無数の事実が散乱しているが、それらの事実、民衆あるいは庶民と呼ばれる人びとが経験したものの蓄積は、そのままでは墓場に埋もれてしまう運命にある。それをどう掬い上げ表現するかが、書き手の役割である。》

《数字や資料は、文章の骨格をつくる。エピソードがそれに肉付けをし、血を通わせる。そういう意味でわたしは、とりわけノンフィクションを書く場合にエピソードを大切にしている。》


どれも我が意を得たりの思いがする。

追記
  《エピソードは、その文章の肉付けをし血を通わせるだけではない。エピソードは、書いた本人がそれと気づかない力を、その内側に秘めているものなのだ。(略)読者の想像力を引き出し、その想像力によって育つことができる生命力をその内側に秘めている。(略)その期待や予測を超えるものを書くのが書き手の力量ではないか、と肝に銘じつつ書いた。》

  《他人を語ることは、自分を語ることである。自分というフィルターを通してしか、他人を語ることはできないのだから。》


 《それはともかく、掴みボクロの体験でわたしは、聞き手のプロというのは話を脱線させる名手なのにちがいないと確信した。意識して脱線させようとしてできることではないが、》

  
  《わたしのフィルターは、旋盤工そのものであった。(略)フィルターを通して、そこで濾過して不要なものは捨て、必要なものだけを使う。それをしなかったら、たとえば一人の人生を語ってもらって、それをわずか十五枚や二十枚の原稿に凝縮して書くなんてことはできはしない。》

  《他人を語ることはおのれを語ることであるが、なにかを語らないことがおのれを語っている、ということだってあり得るはずである。取材ノートにびっしり書き込まれた話題のあれこれ、二時間三時間に及ぶ録音テープに吹き込まれた豊富なエピソードや脱線ばなしの数々、そこから何を取り捨てるかは、書き手の選択にまかされているのだから。》


  《町工場ではかつて”一人残業”はさせないという不文律があった。不測の事故に備えてのことである。》
 これはわたしも経験したこと。三年間の町工場勤めで、何度も危険な場面に遭遇した。機械は無情なのである。

  《わたしはかつて一度も、どこかの出版社や雑誌の編集部というようなところに自分の原稿を”売り込み”に行ったことがない。すべては依頼されて書いた。(略)安月給とはいえ、最低の生活は旋盤工で稼げる。原稿料や印税だけで食べていく身だったらそうはいかないだろうなと、そんなときはほっとしたものである。》
  
  《わたしは、工場と書いて「こうば」と読んでいる。「こうじょう」だと、建物と機械がクローズアップされてしまって、そこで働く人たちが点景になってしまうというイメージが強い。「こうば」だと、働いている人間がクローズアップされて、建物や機械はその背景に後退する。(略)主人公は人間だという思いを込めている。》
 このことについては、20年以上も前に拙詩集『工場風景』をお送りした際、「わたしは『こうばふうけい』と読みます」と評して下さったことを思い出した。

  《工場の人たちは口が重いとか、職人はなかなか話をしてくれないなんて言う人がいるが、それはその人の器が貧弱だからにすぎない。人格や教養のことではない。相手の話を受け入れる、容器としての器である。(略)口が重いと思うのは、彼らの心を開かせる手段を知らないにすぎない。》

  《…わたしはそういう人たちの実体験を聞いた。しかしその実体験をそのまま書けばルポルタージュになるのか、といえばそうではない。そのまま書くだけなら、メモやテープを起こして、体験記とすればいい。(略)文章を書くというのは、聞いた話のテープを起こすことではない。実際にその人たちの人生に触れた直接の印象から出発して、さらにもう一歩も二歩も深い現実に踏み込んでいくのが、ルポルタージュやノンフィクションを書く者の役割である。》

  《書き手は常に軟らかな感性を磨き、他人の話を謙虚にそして真摯に受け入れる器となることが必要なのであろう。そうやって書いた文章を、語ってくれた人にお返しする、それが書き手の役割というものであろう。(略)そこに書かれた自分の姿から、何か一つでも新しい自分を発見して頂くことができたなら、それこそ書き手冥利に尽きるというものではあるまいか。》

ここまでお読みくださいましてありがとうございます。
小関さんにご興味を持っていただけた方には、もう少しお付き合いください。
小関さん原作のテレビドラマの話です。
緒形拳さんとのエピソード。感動的です。
←二段階クリック。

←クリック。

←クリック。

どうでしょうか。小関さんのお人柄があふれ出たような文章ではありませんか。


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小関智弘さんと猪狩洋さんのこと

2020-10-29 08:49:20 | 文学
入院中に、東京の小関智弘さんから分厚い封書が届いた。
小関さんは、芥川賞直木賞の候補に何度もなった作家さん。
家内が病院に届けてくれて、「なんだろう?」と思ったのだが、開けてびっくり。
《たまたま知り合いの方から送られた「別嬢」を読んでいたところ、貴君のお名前を知りました。》とある。
加古川の詩誌「別嬢」112号を読まれてのことだった。

その号には編集者の高橋夏男氏のお誘いでわたしも駄文を書かせていただいている。
それを読まれたのだ。
まず、小関さんのことだが、氏と知り合ったのはもう20年以上も昔のこと。
わたしが初めてともいえる詩集『工場風景』を30部ほど私家版で出した時、
詩人杉山平一先生がそれを絶賛して下さり、そして、小関さんにもお送りするようにと紹介して下さったのだった。
以後、ずっと交流が続いていて、西宮に講演に来られた時、一度だけお会いしている。
なぜ小関さんの所に「別嬢」が行ったかというと、中に猪狩洋という人の文章が5ページにわたって載っている。
そこに小関さんが登場しているのだ。
猪狩洋さんは、農民詩人猪狩満直のご子息。
満直は高橋夏男さんが、坂本遼、木山捷平と並んでその事跡を追いかけている農民詩人である。
その過程で夏男さんは洋さんを取材し、交流が生まれていたというわけ。
そして、小関さんと洋さんも旧知だった。
小関さんと洋さんの関係もドラマチックで面白いのだが、それは『働きながら…』をお読みいただきたい。
小関さんが送って下さった資料に、ご自身の著書『働きながら書く人の文章教室』(岩波新書)からのコピーがあった。
そこに、猪狩満直と洋さんが登場している。
この本、わたしも以前読んでいるはずだったが、内容は忘れていた。


一部紹介します。
←クリック。
前後なんページかに、満直さんと洋さんのことが小関さんの温かい筆致で感動的に書かれている。
そして、洋さんが「別嬢」に書かれた一部。
←クリック。
左側ページに小関さんのことが書かれている。
ということで、小関さんの便りにあった「知り合いの方」というのは洋さんだったというわけ。
ホントに世間は広いようで狭いもの。人の世、面白いものです。

人の世の本。『完本コーヒーカップの耳』



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