今朝の神戸新聞。

前宝塚市長の中川智子さんのことが大きく載っている。
聞き手として土井秀人さん。わたしも一度昔に取材を受けたことがあるような気がするが…。
リード文にこんなことが
《猛アタックの末に結婚した夫には、こう求愛した。「私は美人じゃないけど、かめばかむほど味の出るスルメのような女です」》
この中川さん、実は杉山平一先生の大のファンだった。しかし、それは杉山先生がお亡くなりになる直前のこと。
先生の最後の詩集『希望』が話題になった時にお二人は対談しておられる。
先生はこの時西宮のご息女のところにおられたが、住所は宝塚だった。その縁で。
中川さんは初めて会って話した杉山先生に一気に魅了され、先生の著書を読み始める。
しかし、直後に先生は急死。大変ガッカリされたのだった。
そのあと、宝塚で先生を「偲ぶ会」が催され、中川市長も出席し杉山先生を惜しむスピーチをされた。
もちろんわたし出席しました。
その時、先生の詩の朗読会もあって、主演は竹崎利信さんという劇団員。そしてその仲間が次々と先生の詩を朗読されたのでした。
因みに竹崎さんは昔、わたしの詩集『コーヒーカップの耳』を阪神尼崎駅前の「獨木舟」という喫茶店で一冊全部朗読というイベントをされました。その時、わたしは自分の詩の朗読を聞いて不覚にも落涙してしまったのを覚えています。
「獨木舟」は当時、尼崎で多くの文化人が集う喫茶店だったのです。
マスターの田中元三さんが詩人伊藤静雄のフアンで、店名は伊藤の詩「獨木舟」に因んでのもの。
その田中さんもお亡くなりになってしまって。
ああ、こんな話、書き始めたら、いくらでもつながって行く。とりとめのないこと書いてしまいました。
杉山先生の詩「希望」が、広報誌「たからづか」の表紙を飾ったことも。

前宝塚市長の中川智子さんのことが大きく載っている。
聞き手として土井秀人さん。わたしも一度昔に取材を受けたことがあるような気がするが…。
リード文にこんなことが
《猛アタックの末に結婚した夫には、こう求愛した。「私は美人じゃないけど、かめばかむほど味の出るスルメのような女です」》
この中川さん、実は杉山平一先生の大のファンだった。しかし、それは杉山先生がお亡くなりになる直前のこと。
先生の最後の詩集『希望』が話題になった時にお二人は対談しておられる。
先生はこの時西宮のご息女のところにおられたが、住所は宝塚だった。その縁で。
中川さんは初めて会って話した杉山先生に一気に魅了され、先生の著書を読み始める。
しかし、直後に先生は急死。大変ガッカリされたのだった。
そのあと、宝塚で先生を「偲ぶ会」が催され、中川市長も出席し杉山先生を惜しむスピーチをされた。
もちろんわたし出席しました。
その時、先生の詩の朗読会もあって、主演は竹崎利信さんという劇団員。そしてその仲間が次々と先生の詩を朗読されたのでした。
因みに竹崎さんは昔、わたしの詩集『コーヒーカップの耳』を阪神尼崎駅前の「獨木舟」という喫茶店で一冊全部朗読というイベントをされました。その時、わたしは自分の詩の朗読を聞いて不覚にも落涙してしまったのを覚えています。
「獨木舟」は当時、尼崎で多くの文化人が集う喫茶店だったのです。
マスターの田中元三さんが詩人伊藤静雄のフアンで、店名は伊藤の詩「獨木舟」に因んでのもの。
その田中さんもお亡くなりになってしまって。
ああ、こんな話、書き始めたら、いくらでもつながって行く。とりとめのないこと書いてしまいました。
杉山先生の詩「希望」が、広報誌「たからづか」の表紙を飾ったことも。


「兵庫県現代詩協会」主催の読書会のチューター役、無事に務めてきました。

二時間のうちわたしの持ち時間は一時間。
残りは質疑時間です。
時間が余ったら不細工なので、材料を十分に用意して行きました。
するととても時間が足りませんでした。
予め司会者には30分のオーバーを認めてもらっていましたので、一時間半ぐらいで終えました。
でも、話したいことは残ってしまいました。
まあ、仕方がないですね。
ありがたかったのは、「火曜日」同人仲間だった人たちが来聴してくれたこと。
高橋Fさん、福岡さん、北野さん、黒住さん、芦田さんなど。
心強かったです。
子ども相手のおしゃべり(将棋教室)は再開しているのですが、
大人のひと相手は久しぶりです。もう二年以上もしていないですね。
今回は最初、「小野十三郎さんについて話して下さいませんか」と依頼を受けたのですが、
「それはできません。小野さんのことはそれほど知りませんので」とお断りしました。
小野さんについては、拙著『触媒のうた』で触れてはいますが、お会いしたのは一度だけ。
それも個人的に会ったのではなく、講演をお聞きしただけでした。
それでやれやれと思って、「足立先生や杉山先生ならともかくも」と言ってしまったのです。
すると、「それじゃ、杉山さんで」ということになってしまいました。
あらら、要らぬことを口走ってしまいました。
ということで杉山平一先生のことをおしゃべりする羽目になった次第です。
まあ、内輪での催しですので、少人数になると思ってました。しかも私の話なんか聞きに来る人がそんなにいるわけがないので。
でもわたしは三人でも五人でも、一生懸命にお話しするつもりでした。
ところが、担当者さんからの電話によると、思いのほかたくさんの参加があるようです。
準備は進めていたのですが、まだまだ日にちがあると思っているうちにその日が近づき、
やっと昨日今日で資料が整いました。

一時間ということですが、これで体調さえ損ねなければなんとかなるでしょう。
ちょっとホッとしています。
『コーヒーカップの耳』おもしろうて やがて哀しき 喫茶店
大人のひと相手は久しぶりです。もう二年以上もしていないですね。
今回は最初、「小野十三郎さんについて話して下さいませんか」と依頼を受けたのですが、
「それはできません。小野さんのことはそれほど知りませんので」とお断りしました。
小野さんについては、拙著『触媒のうた』で触れてはいますが、お会いしたのは一度だけ。
それも個人的に会ったのではなく、講演をお聞きしただけでした。
それでやれやれと思って、「足立先生や杉山先生ならともかくも」と言ってしまったのです。
すると、「それじゃ、杉山さんで」ということになってしまいました。
あらら、要らぬことを口走ってしまいました。
ということで杉山平一先生のことをおしゃべりする羽目になった次第です。
まあ、内輪での催しですので、少人数になると思ってました。しかも私の話なんか聞きに来る人がそんなにいるわけがないので。
でもわたしは三人でも五人でも、一生懸命にお話しするつもりでした。
ところが、担当者さんからの電話によると、思いのほかたくさんの参加があるようです。
準備は進めていたのですが、まだまだ日にちがあると思っているうちにその日が近づき、
やっと昨日今日で資料が整いました。

一時間ということですが、これで体調さえ損ねなければなんとかなるでしょう。
ちょっとホッとしています。
『コーヒーカップの耳』おもしろうて やがて哀しき 喫茶店
必要があって杉山平一先生の年譜を読んでいたのですが、本が大きすぎて不便なんです。
『杉山平一全詩集』の下巻の巻末に載ってます。
800ページを超える大冊です。
で、年譜のページだけをコピーして冊子にしました。

二段組で60ページを超えてます。杉山先生の自筆年譜です。
その冒頭にこう書かれています。
《大正三年(1914年) 十一月二日、福島県会津若松市に生まれた。というのも、父黌一が、神戸三菱電気より、猪苗代水力発電所(現東京電力)建設の発電機据えつけのための技術者としてその地に出向、滞在中だったからである。産婆が、母美登のおでこに聴診器を当てて、男か女を判断したという。雪の日は保温のため蚊帳を吊ったと後年母は語った。翌年、発電所は完成、一家は神戸へ帰任した。》
ご本人自筆の年譜ならではの記述です。
こんな感じで60ページ余り、一冊の読み物になっています。
これで手に持って読むのに便利です。
『杉山平一全詩集』の下巻の巻末に載ってます。
800ページを超える大冊です。
で、年譜のページだけをコピーして冊子にしました。

二段組で60ページを超えてます。杉山先生の自筆年譜です。
その冒頭にこう書かれています。
《大正三年(1914年) 十一月二日、福島県会津若松市に生まれた。というのも、父黌一が、神戸三菱電気より、猪苗代水力発電所(現東京電力)建設の発電機据えつけのための技術者としてその地に出向、滞在中だったからである。産婆が、母美登のおでこに聴診器を当てて、男か女を判断したという。雪の日は保温のため蚊帳を吊ったと後年母は語った。翌年、発電所は完成、一家は神戸へ帰任した。》
ご本人自筆の年譜ならではの記述です。
こんな感じで60ページ余り、一冊の読み物になっています。
これで手に持って読むのに便利です。
杉山平一先生の本を必要があって読んでいるが、今日はこの本。

『詩と映画と人生』(なにわ塾叢書・1994年)です。
一度読んではいるのですが、忘れています。
今日はこんな場面で「あっ」でした。

クリックして、「この心ということですが、」以下の数行を読んでみてください。二段階クリックでさらに大きくなります。
いつの子どもも、そんなことを考えるんですね。
わたしの人生最初の本『ライオンの顔』にこんな口頭詩を載せています。
心ってあるの?
どこにあるの?
体の中にあるの?
さわられへん?
見えへん?
というものです。わたしの長男が5歳の時に発した言葉。
因みに『ライオンの顔』は一冊だけ西宮図書館に所蔵されています。
わたしが送ったのではなく、どなたかが寄贈されたようです。

『詩と映画と人生』(なにわ塾叢書・1994年)です。
一度読んではいるのですが、忘れています。
今日はこんな場面で「あっ」でした。

クリックして、「この心ということですが、」以下の数行を読んでみてください。二段階クリックでさらに大きくなります。
いつの子どもも、そんなことを考えるんですね。
わたしの人生最初の本『ライオンの顔』にこんな口頭詩を載せています。
心ってあるの?
どこにあるの?
体の中にあるの?
さわられへん?
見えへん?
というものです。わたしの長男が5歳の時に発した言葉。
因みに『ライオンの顔』は一冊だけ西宮図書館に所蔵されています。
わたしが送ったのではなく、どなたかが寄贈されたようです。
杉山平一先生に『現代詩入門』という優れた詩の入門書がある。

以前に読んだが、また読んでいる。
読んで感動する入門書なんて滅多にないものだが、この本は各所に感動する場面がある。
引用文が素晴らしいのだ。これは杉山先生の教養の深さと感性の素晴らしさだろう。
また別に考えどころも面白い。やはり詩人です。
そんな中で。今日読んだところで愉快だった場面。
《秀れた詩人や小説家に、落第とか中途退学というのが大変多い。》
《詩人や文学者には文字の下手な人が多い。事務的なきちんとした字を見ると、芸術家ではないのだなとわかる。へたな歪んだ字の人はみないい詩を書くわけではないが、そんな字を見ると、素質はあるな、と思ったりする。》
わたしとしては、なんともうれしくなるお考えである。
自慢じゃないがわたしは、落第と中途退学の双方を経験している。
字も極めて悪筆だ。
が、わたしは先生に失望を与えてしまったかも。
ところで先生の字である。

そして、わたしの字。

『コーヒーカップの耳』

以前に読んだが、また読んでいる。
読んで感動する入門書なんて滅多にないものだが、この本は各所に感動する場面がある。
引用文が素晴らしいのだ。これは杉山先生の教養の深さと感性の素晴らしさだろう。
また別に考えどころも面白い。やはり詩人です。
そんな中で。今日読んだところで愉快だった場面。
《秀れた詩人や小説家に、落第とか中途退学というのが大変多い。》
《詩人や文学者には文字の下手な人が多い。事務的なきちんとした字を見ると、芸術家ではないのだなとわかる。へたな歪んだ字の人はみないい詩を書くわけではないが、そんな字を見ると、素質はあるな、と思ったりする。》
わたしとしては、なんともうれしくなるお考えである。
自慢じゃないがわたしは、落第と中途退学の双方を経験している。
字も極めて悪筆だ。
が、わたしは先生に失望を与えてしまったかも。
ところで先生の字である。

そして、わたしの字。

『コーヒーカップの耳』
一昨日のサンテレビ、杉山平一先生が当時専務をしておられた「尼崎精工株式会社」のことの後編「尼崎精工 創業者一族が直面した戦争」は感動的でした。
平一先生は登場しませんが、写真ではあちこちに。
その代わり、先生のご子息が登場しておられて、先生によく似ておられました。
その画面の写真を何枚か、わたしのFB(読者限定)に上げています。
これは弟さんの出征風景。左から4人目が平一先生。
平一先生は登場しませんが、写真ではあちこちに。
その代わり、先生のご子息が登場しておられて、先生によく似ておられました。
その画面の写真を何枚か、わたしのFB(読者限定)に上げています。
これは弟さんの出征風景。左から4人目が平一先生。

昨日、宍粟市の詩人、西川保市さんに電話した。
久しぶりだったので、お元気かな?と思ったが、しっかりしたお声で安心した。
保市さんの詩をずっと読んできたわたしは、「この人は多分、杉山平一氏のファンだろうな」と思ってのこと。
なのでサンテレビのことをお教えしたのだ。
すると、「わたし、実はひそかに杉山さんを師と思っています」と。
昔、杉山氏が詩の選者をしておられた東京の文芸誌(誌名を失念と)に投稿していたことがあったと。それに杉山氏が寸評や励ましを書いてくださっていて、それが勉強になったと。そして、年間賞を受けたことが あるとのことだった。
わたしの予想が的中した。
西川保市氏、現在、98歳。
いつまでもお元気で詩を作り続けていただきたい。
因みに氏は、川柳作家で優れたエッセイストでもあった時実新子さんのファンでもある。
久しぶりだったので、お元気かな?と思ったが、しっかりしたお声で安心した。
保市さんの詩をずっと読んできたわたしは、「この人は多分、杉山平一氏のファンだろうな」と思ってのこと。
なのでサンテレビのことをお教えしたのだ。
すると、「わたし、実はひそかに杉山さんを師と思っています」と。
昔、杉山氏が詩の選者をしておられた東京の文芸誌(誌名を失念と)に投稿していたことがあったと。それに杉山氏が寸評や励ましを書いてくださっていて、それが勉強になったと。そして、年間賞を受けたことが あるとのことだった。
わたしの予想が的中した。
西川保市氏、現在、98歳。
いつまでもお元気で詩を作り続けていただきたい。
因みに氏は、川柳作家で優れたエッセイストでもあった時実新子さんのファンでもある。
昨日のサンテレビ「キャッチ +」という番組。「ひょうご戦争の記憶」。
杉山平一先生のご尊父が経営なさっていた「尼崎精工株式会社」のことが。

たくさんの資料は杉山家が「尼崎市立歴史博物館」に寄贈なさったもの。
社長、平一先生のご尊父。

「戦争中の障害者・尼崎精工 工員たちの戦争の記憶とは」。

戦中のあの時代に、聴覚障碍者を100人以上も雇用なさっていたのだ。
5:40分ぐらいから約8分間の放映。今日も後編があります。
平一先生の若き日の写真も。
お父さんの隣に。
そして後ろに。
平一先生、ハンサムですね。
この戦時中に平一先生は、学徒動員された女子生徒に詩の講義をされていたことをわたしは知り、『KOBECCO』に「大洲からの手紙」と題して書いたことがあります。これも貴重な情報だと思うのですが。
杉山平一先生のご尊父が経営なさっていた「尼崎精工株式会社」のことが。

たくさんの資料は杉山家が「尼崎市立歴史博物館」に寄贈なさったもの。
社長、平一先生のご尊父。


「戦争中の障害者・尼崎精工 工員たちの戦争の記憶とは」。

戦中のあの時代に、聴覚障碍者を100人以上も雇用なさっていたのだ。
5:40分ぐらいから約8分間の放映。今日も後編があります。
平一先生の若き日の写真も。
お父さんの隣に。

そして後ろに。

平一先生、ハンサムですね。
この戦時中に平一先生は、学徒動員された女子生徒に詩の講義をされていたことをわたしは知り、『KOBECCO』に「大洲からの手紙」と題して書いたことがあります。これも貴重な情報だと思うのですが。
今日と明日の二回、午後5時からのサンテレビの「キャッチ+」という番組に、杉山平一先生のお父さんが経営しておられた「尼崎精工株式会社」が5時半ごろに登場します。
戦時中に聴覚障碍者がたくさん働いておられたこと。
この話、このブログでも「尼崎精工」と題して書いたことがあります。
戦時中に聴覚障碍者がたくさん働いておられたこと。
この話、このブログでも「尼崎精工」と題して書いたことがあります。
うっかりしていた話。
大切にしている雑誌がある。
『こだはら』という、帝塚山学院大学の機関誌。
これの第35号。2013年発行。杉山平一先生の追悼号になっている。

表紙絵は庄野英二さんの「軽井沢教会」。
これに杉山先生が帝塚山の「大学通信」などに書かれた詩が載っている。
先生の全集にも載っていない詩があって貴重なのだ。
今朝も書棚から出してきてパラパラと見ていた。
いつもなら詩だけを楽しむのだが、今朝はその後ろに載っている、先生が遺された書評や追悼文などのページに目をやった。
これまでその部分は詳しくは読んでなかった。
ところがこれが面白い。
例えば、長沖一さんへの追悼文の中のこの一節。
《教師というものは、かなり物事を識っていると期待されるために、つい「知ったかぶり」をしてしまうものである。長沖さんはそれをされない。》
これは実感すること。スルーしてしまう教師もおられることをわたしも知っている。
あるいはこんなの。
《たしかに、絵はわからない、美はむつかしい、という人でも、美人はわかるというのを見ても、美の源泉はエロスにあるということは間違いあるまい。》。これは庄野英二詩画集『王の悲しみ』の書評から。
ほかにも興味深い杉山先生の言葉がいっぱい載っている。
今まで読まずにいたなんてもったいないことだった。
追記
上の記事に関連して思い出すことがある。
かつて宮崎修二朗先生がおっしゃっていたこと。
「今村さん、先生と呼ばれるようになったら気を付けないといけませんよ。だれも批評をしてくれなくなります。おかしなことを言ったりしたりしても注意をしてもらえなくなります。淋しいものです」と。
大切にしている雑誌がある。
『こだはら』という、帝塚山学院大学の機関誌。
これの第35号。2013年発行。杉山平一先生の追悼号になっている。

表紙絵は庄野英二さんの「軽井沢教会」。
これに杉山先生が帝塚山の「大学通信」などに書かれた詩が載っている。
先生の全集にも載っていない詩があって貴重なのだ。
今朝も書棚から出してきてパラパラと見ていた。
いつもなら詩だけを楽しむのだが、今朝はその後ろに載っている、先生が遺された書評や追悼文などのページに目をやった。
これまでその部分は詳しくは読んでなかった。
ところがこれが面白い。
例えば、長沖一さんへの追悼文の中のこの一節。
《教師というものは、かなり物事を識っていると期待されるために、つい「知ったかぶり」をしてしまうものである。長沖さんはそれをされない。》
これは実感すること。スルーしてしまう教師もおられることをわたしも知っている。
あるいはこんなの。
《たしかに、絵はわからない、美はむつかしい、という人でも、美人はわかるというのを見ても、美の源泉はエロスにあるということは間違いあるまい。》。これは庄野英二詩画集『王の悲しみ』の書評から。
ほかにも興味深い杉山先生の言葉がいっぱい載っている。
今まで読まずにいたなんてもったいないことだった。
追記
上の記事に関連して思い出すことがある。
かつて宮崎修二朗先生がおっしゃっていたこと。
「今村さん、先生と呼ばれるようになったら気を付けないといけませんよ。だれも批評をしてくれなくなります。おかしなことを言ったりしたりしても注意をしてもらえなくなります。淋しいものです」と。
この前19日に「尼崎精工」のことを書いた。
尼崎精工は杉山平一先生のご尊父が創業された会社である。
その中で、大洲の中山サチ子さんに触れた。
「お元気かなあ?」と。
で、その記事のコピーを同封してサチ子さんに手紙を出した。
その返事が昨日届いた。
以前には体調が優れず、娘さんが代筆で便りをくださったことがあるので心配だったが、今回はご自分で書かれたハガキだった。
多少のたどたどしさはあるが、心を尽くしての文章にわたしは感動した。
その一部。《尼崎で弾つくりしていた日々を思い出しました。》。
ご高齢だが、無理して書いてくださったのだ。
サチ子さん、どうかどうか、お元気でいてくださいね。
『コーヒーカップの耳』
尼崎精工は杉山平一先生のご尊父が創業された会社である。
その中で、大洲の中山サチ子さんに触れた。
「お元気かなあ?」と。
で、その記事のコピーを同封してサチ子さんに手紙を出した。
その返事が昨日届いた。
以前には体調が優れず、娘さんが代筆で便りをくださったことがあるので心配だったが、今回はご自分で書かれたハガキだった。
多少のたどたどしさはあるが、心を尽くしての文章にわたしは感動した。
その一部。《尼崎で弾つくりしていた日々を思い出しました。》。
ご高齢だが、無理して書いてくださったのだ。
サチ子さん、どうかどうか、お元気でいてくださいね。
『コーヒーカップの耳』
今朝の神戸新聞「阪神版」。

例によって「神戸新聞」さん、記事拝借お許しを。
杉山平一先生のご子息が「尼崎精工」の貴重な資料を寄贈されたと。
写真を二段階でクリックして見てください。

ここに写っている女学生は大洲高女の女学生さんではないでしょうか?
以前ブログに「大洲からの手紙」と題して書きました。
その中山サチ子さんは写っておられないでしょうか?
それにしても中山さん、お元気かなあ?今年、年賀状はいただいていますけど。
『コーヒーカップの耳』

例によって「神戸新聞」さん、記事拝借お許しを。
杉山平一先生のご子息が「尼崎精工」の貴重な資料を寄贈されたと。
写真を二段階でクリックして見てください。


ここに写っている女学生は大洲高女の女学生さんではないでしょうか?
以前ブログに「大洲からの手紙」と題して書きました。
その中山サチ子さんは写っておられないでしょうか?
それにしても中山さん、お元気かなあ?今年、年賀状はいただいていますけど。
『コーヒーカップの耳』