goo blog サービス終了のお知らせ 

喫茶 輪

コーヒーカップの耳

恩人のご命日

2022-04-01 09:19:54 | 宮崎修二朗翁
今日4月1日は、わたしの恩人、宮崎修二朗先生のご命日です。
一昨年の今日、98歳での天寿を全うされて。
ということで、ご健在ならば、100歳になられるのですね。
ご自分では「今村さん、困ったもんです。ぼく、100歳まで生きそうです」とおっしゃっていたのだったが。

     

お元気なうちに『触媒のうた』を出せて良かったと思っている。



少しはご恩返しができたのかと。

その『触媒のうた』の中の「足立巻一先生」の項より、足立先生の言葉として。

《宮崎(修二朗)さんは俊敏なジャーナリストです。そんな顔つきをしていますし、じっさいにそれだけの実績を持ってます。しかし、根は無償の発掘者ではないかと思います。発掘者は山師ではありません。営々とガラクタを掘りつづけねばなりません。おそらく、わたしもたまたまそのガラクタの一片として愛情をあたえられたのでしょう。じっさい、わたしのように、宮崎さんの周囲にはそのふしぎな友情を得たガラクターー無名がじつに多いことをわたしは知っています。そんな宮崎さんだからこそ、地方文学史という無償の発掘作業を終生の仕事に選び、戦後一貫して推し進められたのだと思います。》

正にこの「ガラクタ」の一員がわたしだったのです。足立先生は決してガラクタではなく、まぎれもない一級品でしたが。

ああ、宮崎先生、もっともっとお元気でいてほしかったなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮崎翁と南風洋子

2022-03-18 08:27:20 | 宮崎修二朗翁
宮崎翁の遺品、著名人からの書簡を調べていたら

こんなのが出てきました。



南風洋子
「お手紙本当にありがたう。
 そのうちに又ゆっくり書きます。
            ノロ 」



宝塚歌劇出身の女優さん。ニックネームが「ノロ」だったんですね。
しかし宮崎翁の書かれたものの中に彼女に関するものはあったでしょうか?
わたしは覚えがありません。
翁はお若い時、宝塚歌劇も取材範囲で楽屋にも入ることができたとおっしゃっていました。
そして、富士野高嶺さんとは親しかったのを知ってますが。
このハガキ、5円切手。
消印は昭和29年8月12日。発信局は荻窪。
古い話です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

潮崎さん

2022-03-03 09:31:55 | 宮崎修二朗翁
今朝の神戸新聞。例によって拝借お許しを。
←クリック。
久しぶり、本当に久しぶり。
潮崎孝代さんだ。
昔、「喫茶・輪」にご来店いただいたことがある。宮崎修二朗先生に伴われてだった。
古い住所録を出して確かめると、2006年のところに載っている。
何度か年賀状を交換したことがあり、毛筆が達者だったと記憶する。
この記事にある『雪』の連載だが、わたしも定期購読していた時には読ませていただいていた。
上手い文章だった。宮崎先生のお目にかなう文章だったのだ。
書かれた本もいただいたことがあるように思うのだが、今手元に見当たらない。
で、ちょっと驚いたのが、記事の最後。
「花森書林で販売」とある。
人の縁はこうしてつながるのですねえ。
早くコロナが落ち着いてほしいなあ。

『触媒のうた』 宮崎修二朗先生の語る文学史秘話。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坪内捻典さん

2022-03-02 10:09:23 | 宮崎修二朗翁
神戸新聞記事です。拝借お許しを。



坪内稔典さんが「伊丹ミュージアム」名誉館長にと。
ところで「稔典」というお名前だが、「ねんてん」とルビが振ってある。
これについて思い出がある。
宮崎修二朗翁の「傘寿と出版を祝う会」でのことである。



2,002年だから丁度20年前。もうそんなになるんだ。
ということは翁ご健在なら、今年丁度100歳におなりになるんだ。
「困ったもんです。ぼく百歳まで生きそうです」とおっしゃっていたが。
この会でわたしは祝電を読み上げる役を仰せつかった。
田辺聖子さんなど、たくさんの名士からの電報の中にこの坪内捻典さんのがあった。
わたしは「稔典」の正確な読みがわからなかった。
「としのり」か「ねんてん」か。普通なら「としのり」だろう。
しかし躊躇できない。ただ、「ねんてんさん」と聞いた覚えがあったので咄嗟に「つぼうちねんてんさま」と読んだ。
その後、あれで良かったのか?と気になっていた。
やはり実名は「としのり」だった。が、「ねんてん」もご本人が使っておられたのだ。
俳号として。
間違いでなくて良かった。
で、今日の新聞記事、「俳人の」とあるから「ねんてん」でいいのだろう。

『触媒のうた』宮崎修二朗翁の文学史秘話。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『天才作曲家 大澤壽人』

2021-12-28 11:48:11 | 宮崎修二朗翁
今年は今日までの図書館へ行ってきました。
予約していた本が今日用意されましたとメールがあって。



『天才作曲家 大澤壽人』(生島美紀子著・みすず書房・2017年)5200円+税
大冊です。565ページ。厚み39ミリ。重さ666グラム。
先日このブログに上げた大澤壽人の評伝です。
「香櫨園の大澤壽人」と題して上げました。

何枚かの写真が載っています。
そのうちの一枚は、この絵。



「田村孝之介が描く壽人と越路吹雪」とキャプションがついてます。
さすが田村、デッサンですけどいいですねえ。
田村なら、宮崎翁が香櫨園浜に集めたうちの一人。
壽人も一緒にね。

この本には人名索引が載っていて、ざっと見てみると、興味深い名前がいくつも見えます。
先の香櫨園浜に集結した人の名も田村のほかに何人か。
富田砕花、牧嗣人、小野十三郎、など。
宮崎翁の、これも触媒仕事の一つではないでしょうか。

さらに興味深いのは、中野繁雄、竹中郁の名も。
一緒に仕事をなさっていたのだ。しかも重要な仕事を。

まだまだ興味深いのは、校歌の作曲。
わたしが通った学校の校歌も。
西宮市立浜脇小学校、浜脇中学校。
そして、砕花師の作詞の報徳学園の校歌の作曲も壽人氏。
ほかの学校もいっぱい。
「戦後の学制改革の時期には新校歌を求めるブームが起こった。壽人は校歌作曲の依頼を断ることなく、50年以降はことに、壽人の校歌が関西一円を超えて拡がった。」とのこと。

音楽の専門的なことはわたしには解りませんが、その他のことで興味深いことがたくさんあるようです。
返却期限は1月18日。正月休み(図書館の)がありますので、いつもより長いです。ゆっくりと楽しみましょう。

あ、それから、人名索引には、拙著『触媒のうた』の人名索引と重なる名前がいっぱいあります。
さすが宮崎翁の人脈の人です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

香櫨園の大澤壽人

2021-12-25 18:53:54 | 宮崎修二朗翁
今日午前中は学文公民館での「宮水ジュニア・将棋講座」の講師でした。
今年最後の教室、頑張ってきました。
帰宅して昼食を急いで食べて、門真まで車で。
久しぶりの高速道路運転。
やはり歳ですね。時速80キロで走るのが限界。
それ以上出すのは怖いです。
ということで、少々疲れました。

今朝の神戸新聞阪神版。
←二段階クリック。
大澤壽人のことが大きく報じられています。。
前にも書いたと思いますが、この大澤壽人は、昔、宮崎翁と関係がありました。
この写真です。

戦後すぐの香櫨園浜での写真。
回生病院の庭です。
壽人は真ん中右の、少し体を斜めにしている人。
新聞の写真は正装ですが、これはラフな格好です。
宮崎翁(当時は当然ながらお若いです)は右端後ろで一升瓶を捧げている人。
これについての話は拙著『触媒のうた』の36ページに載せてます。
宮崎翁の言葉です。
《その病院のすぐそばの浜辺で、多くの文化人を集めて酒盛りを何度かやりました。(略)小野十三郎、安西冬衛、阪本勝、田村孝之介、富田砕花、大澤壽人、牧嗣人などを集めてね。》
「天才作曲家、壽人」の別の面を宮崎翁は語ってくださいました。
ただし、記事では「壽人」のルビが「ひさと」となっていますが、宮崎翁は「ひさんど」と呼んでおられました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

樺美智子のこと

2021-12-12 09:21:29 | 宮崎修二朗翁
今朝の神戸新聞「正平調」です。
拝借お許しを。
←クリック。
1960年の安保闘争で命を落とした東大生、樺美智子のことが書かれている。
神戸高校出身とある。
これに関して、わたしは宮崎修二朗翁からお聞きした話がある。
翁は美智子と神戸でお会いしておられるのだ。
その話、まだどこにも書いておりません。
『触媒のうた』にも入れてはおりません。
いつかどこかに、とは思っているのですが…。

『触媒のうた』宮崎翁の文学史秘話。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高島俊男さんのこと

2021-11-29 09:10:21 | 宮崎修二朗翁
徳島市の詩人、梅村光明さんからお贈りいただきました。



詩誌『ア・テンポ』60です。
詩作品のことはまた別に述べることにします。

梅村氏のエッセイ「向田邦子は俳句を詠んだか」に興味深い話がありました。
向田はわたしも大好きな作家で、その小説はすべて読んでいます。
ただ、俳句との関連は正直知りませんでした。
なるほどと思いながら読ませていただき勉強になりました。
ところで文中に「高島俊男」さんのお名前が出てきます。
高島さんは向田をお気に入りだったので。
その高島さん、今年4月5日にお亡くなりになられました。

高島さんの署名です。
わたしの店に来られた時のものです。
 

この本です。


家内に訊くと、どうやらこれは二度目の時に書いて頂いたものらしいです。
最初は宮崎修二朗翁とお二人で見えて、家内が言うには「腰に手ぬぐいをぶら下げて、暑いころ」だったとのこと。
この署名は12月なので、鈴木漠さんもご一緒の時です。
ところで、梅村さんの記述です。
《因みに高島俊男氏は兵庫県相生出身で、週刊文春に連載された漢字の語源紹介エッセイ『お言葉ですが』で知られた方で、私は井伏鱒二の『厄除け詩集』は井伏のオリジナルではなかったことを書いた一文に、多くを教えられたことを思い出す。》
ここ、もうちょっと詳しく…と思うのはわたしの欲でしょうか。「因みに」ですからねえ。
実はこの井伏の『厄除け詩集』のパクリ?問題の発端は、わが宮崎修二朗翁だったということ。
拙著『触媒のうた』に書いてるのですがねえ。
日本文学史上に記されるべき大事なことをわたしはたった一行にしか書いてません。反省。
曰く
《井伏鱒二の訳詩のタネ本を最初に見つけたのが宮崎翁だったのだ。》
この前後に詳細を書いてはいるのですが。
このこと、大岡信氏にも宮崎翁は教えてあげておられます。
そして大岡氏は毛筆巻紙の丁寧な礼状を宮崎翁に書いておられます。その書状、わたし持ってます。
その話は井伏研究家の寺横教授にも伝えられ、学説として定着しました。
みんな宮崎先生の発信からのことだったのです。
その寺横教授が4年ほど前にお亡くなりになった時、出久根達郎さんからわたしに「寺横教授もお亡くなりになりました」とお手紙に書いてくださったのでした。
この話、わたし、頼まれれば一時間でも話せます。
梅村さん、ごめんなさい。ケチをつけるつもりではないんですよ。
ちょっと宮崎翁のことも知って頂きたくて。
『触媒のうた』、今、古書価格が徐々に値上がりしてきてますが、わたしのところにはまだあります。どうぞ、お求めください。
文学好きの方が読んで失望することのない本です、とわたしは思っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『梁塵秘抄』にえべっさんが登場していたとは。

2021-10-25 10:29:39 | 宮崎修二朗翁
先日、西宮図書館のリサイクル図書の棚から戴いてきた本、杉本苑子さんの随想集『片方の耳飾り』の中の話です。
『梁塵秘抄』についての話題。

「梁塵秘抄」といえば、
《遊びをせんとや生まれけむ
 戯れせんとや生まれけん
 遊ぶ子どもの声聞けば
 我が身さへこそ動(ゆる)がるれ》

で有名だが、
こんなのもあるんですね。
《我が子は二十(はたち)に成りぬらん
 博打(ばくち)してこそ歩(あり)くなれ
 国々の博党に
 さすがに子なれば憎か無し
 負(ま)かいたまふな
 王子の住吉西の宮》


こんな意味だそうです。
《息子が博徒になったのは困りものだが、我が子となればやはり可愛いので、 どうか負けませんようにと、住吉や西ノ宮の神様にお祈りした――という、これは老いた母の悲哀をうたったものだ。》

最後に「西の宮」が出てきます。
わたしが住む町です。
西宮のえべっさんが平安時代からこのように取り上げられていたとは。
えべっさんは博奕の神様ではないでしょうに。

その後、この本を斜め読みして、さっき読み終えたのですが、「あとがき」を読んでいて「あらまあ!」でした。
栃折久美子さんのお名前があったからです。
《栃折久美子さんの佳き装丁にも恵まれて》と。
その書影。
杉本苑子さんは宮崎修二朗翁と深いお付き合いのあった人ですが、栃折さんもまた宮崎翁と交流があった人。
先日このブログでも取り上げたばかりでした。《栃折久美子》
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富田砕花旧居

2021-10-24 15:19:17 | 宮崎修二朗翁
ちょっと用事があって富田砕花旧居へ行ってきました。
何十年ぶりでしょうか。
西宮から打出までは阪神電車で。
家から駅までと、駅から旧居までは徒歩で。
歩数約5400歩。よく歩きました。



















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ことばスクランブル』

2021-10-13 16:01:37 | 宮崎修二朗翁
昨年からの懸案になっていた冊子をやっと作成しました。
宮崎修二朗先生の『ことばスクランブル』です。





これは、宮崎先生、お若い日を過ごされた千葉県野田から出ている俳句雑誌『軸』に掲載されたもの。
1995年6月号から2005年4月号までの119回にわたる長期連載です。



コピーを取って三冊に分けて冊子にしました。
昨年、千葉からバックナンバーを送って頂いた時に一度読ませていただきましたが、もう一度読んでみようと思います。
先生の若き日の、知らなかったことも書かれています。
それについては昨年、『歴史と神戸』誌に少し書かせて頂きました。
これは本にはなっておりませんので、貴重な一冊、いや三冊になったかなと思います。
お読みになりたい方は「輪」にお申込み下さい。お貸しします。

『コーヒーカップの耳』


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栃折久美子さん

2021-10-09 09:29:52 | 宮崎修二朗翁
今朝の新聞に栃折久美子さんの訃報が。


6月にお亡くなりになっている。
この人も宮崎修二朗先生と交流のあった人。
わたしが保管している、宮崎先生宛のハガキにたしかあったと探してみた。
4枚出てきました。



消印は昭和29年から30年にかけてのもの。
久美子さん、まだ二十歳代のころだ。
この際、文面を紹介しましょう。
それぞれ写真をクリックしてください。

  

なんと丁寧なハガキではありませんか。
4枚目には詳しい地図までが書かれていて「是非お立ち寄りください」の本気度が解るというもの。

先生からも栃折さんのことはお聞きしたことはあるが、わたしにそれほどの興味がなかったものだから、『触媒のうた』には取り上げていない。
惜しいことをしたと今になって思う。

さらに栃折さんのことについては、わたしの孫kohにも関連してくる。
11年前のブログに書いてます。「ルリユールおじさん」
こんなこと書いてます。
《NHKドラマ「火の魚」を観た。良かった。
観終わってから、原作、室生犀星と知った。
主役の原田芳雄がいいのは分かる。しかし、わたしの知らなかった女優、尾野真千子(活躍
しておられるのを知らなかった)が見事に上手くて驚いた。そして脚本が抜群だった。
一時間番組とは思えない充実したドラマだった。
「芸術祭大賞ドラマ」というのも納得。

尾野真千子が演じた、折見とち子のモデルは、栃折久美子さんなのだと。この人は、いつも
このブログに登場してもらっている(昨日も)宮崎修二朗さんが昔、お会いになっていると聞い
た。
えらいとこでつながってくる。
また、孫の滉が好きな絵本「ルリユールおじさん」とも関連がある。ルリユールとは製本技術
の一つで、栃折さんがベルギーで習得し日本に紹介定着されたのだ。その栃折さんが装丁
家として筑摩書房におられる時に、宮崎氏は接触があったのだと。》


栃折久美子さん、一度お会いしたい人だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「丰」という字

2021-09-28 21:15:11 | 宮崎修二朗翁
宮崎修二朗翁が書かれた文章を引用していて出合った文字「丰」
わたしのパソコンではなかなか出なかった。
電子辞書を使ったりしてなんとか出てきた。
宮崎翁にはいまだに勉強させてもらっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本近代文学史資料

2021-09-28 11:54:33 | 宮崎修二朗翁
わたしのような者が持っていていいものではないもの。
宮崎修二朗翁による『富田砕花資料館』三部。





翁からは「ぼくが死んだらゴミになってしまいますから、あなた、持っていてください」と言って託されたものがいろいろある。
これはそのうちの三冊。
大げさではなく、日本近代文学史の研究をする人には大いに役立つもの。
残念ながらわたしには、その力はありません。
ゴミにならないうちにしかるべきところに納めなくてはなりません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生瀬勝久の長沖一

2021-04-29 08:21:22 | 宮崎修二朗翁
今朝の朝ドラ「おちょやん」だが、生瀬勝久さんが長沖一を熱演しておられた。
先にも書いたが、長沖一は、宮崎修二朗先生が若き日にお世話になられた人。
拙著『触媒のうた』の56ページ。

《新聞記者駆け出しの頃、人脈がなくて困っておられた。そんな中、長沖一(まこと)さんに会い、そのお宅で「阪神ペンクラブ」の名簿を目にし、その月例会に顔を出し、そこで多くの情報を得、水を得た魚のように関西文化人の人脈を形成してゆく。》

宮崎先生にとっても長沖は重要な人だったのだ。

『触媒のうた』 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする