M岡さんのブログを見ていたら、この本が今入手しにくくなっているらしいことがわかった。

足立巻一先生の『大と真』(理論社・1981年)
それで思い出すことがある。
長男が小学三年生の時のこと。わたしたち夫婦が子育てに懸命だったころのこと。
PTAのお世話をしていた時に、むこう見ずにも足立先生に学校でのご講演をお願いしたのである。
その案内文などもわたしが書いた。

その中に『大と真』のあとがきから引用したものがある。
この部分から、
「いま、大の字も真の字も…」
なんか足立先生は今の時代を予測しておられたような気がする。さすがである。
そうだ、さっき『大と真』のページを繰っていたら新聞の切り抜きが出てきた。

神戸新聞の「習字紙上展」
この中に「足立大」という名前が見える。
これ、先生のお孫さんの大ちゃんのことだろうか?

足立巻一先生の『大と真』(理論社・1981年)
それで思い出すことがある。
長男が小学三年生の時のこと。わたしたち夫婦が子育てに懸命だったころのこと。
PTAのお世話をしていた時に、むこう見ずにも足立先生に学校でのご講演をお願いしたのである。
その案内文などもわたしが書いた。

その中に『大と真』のあとがきから引用したものがある。
この部分から、

「いま、大の字も真の字も…」
なんか足立先生は今の時代を予測しておられたような気がする。さすがである。
そうだ、さっき『大と真』のページを繰っていたら新聞の切り抜きが出てきた。

神戸新聞の「習字紙上展」
この中に「足立大」という名前が見える。
これ、先生のお孫さんの大ちゃんのことだろうか?
『発掘 司馬遼太郎』(山野博史)という本を読んでいる。

司馬遼太郎さんが交わった10人ほどの人のことが書いてある。
その中に足立巻一先生のページが多く割かれている。20ページ近く。
笑ったのは、司馬氏が書かれた『虹滅記』(朝日文芸文庫版)の巻末エッセイ。

≪足立巻一さんは、やや大柄で質朴な風貌のひとだった。手拭いで頬かぶりすれば、田が何枚あろうと、一人で堰から水を入れ、代掻きをし、田植えをし、水をぬいてりっぱに育てるという面構えをもっていた。≫
文庫版は購入しなかったのでこの文はわたし初めてお目にかかる。なんという的確な描写!
それから印象的なのは、弔辞。司馬さんは原稿なしで弔辞を読まれたのだと。だから残ってないのですね。
わたしも葬儀に参列したので聞いたはずだが覚えていない。お恥ずかしい。
これ、久米勲さんが書きとめておられる。
久米さんは河出書房新社の編集者です。

≪「足立ツァンは、自己のない人だった。人のことを考える人だった。だから足立ツァンと会っていると、自分も足立ツァンになりたいと思うようになり、そうしょうとする。しかし、やはり足立ツァンにはなれないことがあとでわかる。――文学は自己を語るものだが、自己のない足立ツァンの作品が文学になりえたのは、己を無にし、昇華したところで書いたからだ」(略)≫他にも司馬さん、足立先生のためにいい文章を書いておられます。

司馬遼太郎さんが交わった10人ほどの人のことが書いてある。
その中に足立巻一先生のページが多く割かれている。20ページ近く。
笑ったのは、司馬氏が書かれた『虹滅記』(朝日文芸文庫版)の巻末エッセイ。

≪足立巻一さんは、やや大柄で質朴な風貌のひとだった。手拭いで頬かぶりすれば、田が何枚あろうと、一人で堰から水を入れ、代掻きをし、田植えをし、水をぬいてりっぱに育てるという面構えをもっていた。≫
文庫版は購入しなかったのでこの文はわたし初めてお目にかかる。なんという的確な描写!
それから印象的なのは、弔辞。司馬さんは原稿なしで弔辞を読まれたのだと。だから残ってないのですね。
わたしも葬儀に参列したので聞いたはずだが覚えていない。お恥ずかしい。
これ、久米勲さんが書きとめておられる。
久米さんは河出書房新社の編集者です。

≪「足立ツァンは、自己のない人だった。人のことを考える人だった。だから足立ツァンと会っていると、自分も足立ツァンになりたいと思うようになり、そうしょうとする。しかし、やはり足立ツァンにはなれないことがあとでわかる。――文学は自己を語るものだが、自己のない足立ツァンの作品が文学になりえたのは、己を無にし、昇華したところで書いたからだ」(略)≫他にも司馬さん、足立先生のためにいい文章を書いておられます。
今読んでいる『やちまた』(中公文庫)だが、これについて、「永遠に読み継がれるべき名著」と題して中公文庫のHPに記事が載っている。
そして今わたしは、足立巻一先生のことを書いている。
これはしばらく書く予定。
この人の晩年に目をかけて頂いたことは今は奇跡のような気持ちがする。
わたしの人生を変えたことは間違いない。
そして今わたしは、足立巻一先生のことを書いている。
これはしばらく書く予定。
この人の晩年に目をかけて頂いたことは今は奇跡のような気持ちがする。
わたしの人生を変えたことは間違いない。
今、足立巻一(けんいち)先生のことを書いている。これはしばらく書き続けることになると思う。
すると今日、他の全く関係ないことをネットで見ていて、こんな動画に出合った。偶然である。
[美しき日本] 奈良 十津川村玉置神社
足立先生の著書に『石の星座』(編集工房ノア)というのがある。
これは本のカバー。
須田刻太さんの絵である。
152ページに玉置神社のことが書かれている。「昭和53年の秋、わたしは須田刻太画伯と奈良県十津川村の玉置山に登り、…」
十津川の玉置山へはわたしも宮崎翁とお参りしたことがある。
その時は雨が降り霧が流れて幽玄な神社だった。
先ほど、宮崎翁からあることで電話があった。
偶然が続く。
すると今日、他の全く関係ないことをネットで見ていて、こんな動画に出合った。偶然である。
[美しき日本] 奈良 十津川村玉置神社
足立先生の著書に『石の星座』(編集工房ノア)というのがある。
これは本のカバー。

須田刻太さんの絵である。
152ページに玉置神社のことが書かれている。「昭和53年の秋、わたしは須田刻太画伯と奈良県十津川村の玉置山に登り、…」
十津川の玉置山へはわたしも宮崎翁とお参りしたことがある。
その時は雨が降り霧が流れて幽玄な神社だった。
先ほど、宮崎翁からあることで電話があった。
偶然が続く。
もう一度読みたいと思っていた『やちまた』だが、このほど中公文庫になったということを知り購入した。

もちろんわたし、河出書房新社版は持ってますよ。
しかし以前に出た朝日文庫版は持っていませんでした。
文庫版なら電車の中へも持ち込めますので。
呉智英さんが書かれている巻末エッセイが素晴らしい。
うれしいですねえ。こうして、先生亡くなられて30年にもなるのに新たに文庫版が出るとは。

もちろんわたし、河出書房新社版は持ってますよ。
しかし以前に出た朝日文庫版は持っていませんでした。
文庫版なら電車の中へも持ち込めますので。
呉智英さんが書かれている巻末エッセイが素晴らしい。
うれしいですねえ。こうして、先生亡くなられて30年にもなるのに新たに文庫版が出るとは。
今朝の新聞には、昨日亡くなられた陳舜臣さんの記事が溢れている。
その中に、足立巻一先生との写真も。

よく見ると、机の上には足立先生の同人誌「苜蓿」が見える。
この写真には見覚えが。
わたし、切り抜きを置いてます。
足立先生の対談記事。

兵庫県で活躍する人との対談で、月一回の連載でした。
今朝の新聞に載っているのと同じ写真が。32年前の新聞です。
その中に、足立巻一先生との写真も。

よく見ると、机の上には足立先生の同人誌「苜蓿」が見える。
この写真には見覚えが。
わたし、切り抜きを置いてます。
足立先生の対談記事。

兵庫県で活躍する人との対談で、月一回の連載でした。
今朝の新聞に載っているのと同じ写真が。32年前の新聞です。
昨日、ある人から貴重なご本を「もらってください」と言って戴きました。

足立巻一先生に関連した本です。
そのうちの一冊には署名も。

うれしいことです。

足立巻一先生に関連した本です。
そのうちの一冊には署名も。

うれしいことです。
昨日、講師の甲斐さんが講演の中で「たんぽぽ忌」の写真をスライドで紹介された。
そして竹中郁さんのことを。

それはテーマが坂本遼さんなので仕方がないのだが、竹中郁さんと共に児童詩誌「きりん」の主要メンバーだった足立先生のこともちょっとは話して欲しかったというのが、わたしの望みでした。左端に足立先生も写っておられるので。その隣が竹中郁さん。
そして竹中郁さんのことを。

それはテーマが坂本遼さんなので仕方がないのだが、竹中郁さんと共に児童詩誌「きりん」の主要メンバーだった足立先生のこともちょっとは話して欲しかったというのが、わたしの望みでした。左端に足立先生も写っておられるので。その隣が竹中郁さん。
古い日記を見出したら止まらない。
昭和60年1月27日(日)晴れ
hitoshi、kiyoを連れて三宮サンパル・ジュンク堂へ。鹿島和夫先生の「一年一組、写真展」を見に行く。
行って驚いた。
足立先生が喫茶ルームにおられた。
hitoshiとkiyoがジュース、ぼくがコーヒーをご馳走になった。
「あなたが登場して来た時は新鮮でしたなあ!」と言われた。
いろんな話をしたかったのに、いざというとなかなか話せなかった。
川上さん取材についての話をして、2月17日(日)の線で進めることにした。
この川上さんの取材に一日ご一緒させて頂いたのだった。
昭和60年1月27日(日)晴れ
hitoshi、kiyoを連れて三宮サンパル・ジュンク堂へ。鹿島和夫先生の「一年一組、写真展」を見に行く。
行って驚いた。
足立先生が喫茶ルームにおられた。
hitoshiとkiyoがジュース、ぼくがコーヒーをご馳走になった。
「あなたが登場して来た時は新鮮でしたなあ!」と言われた。
いろんな話をしたかったのに、いざというとなかなか話せなかった。
川上さん取材についての話をして、2月17日(日)の線で進めることにした。
この川上さんの取材に一日ご一緒させて頂いたのだった。