
みどりさんのことについては宮崎翁からお聞きした面白いエピソードがあるが、ちょっと公表を憚られますので、ここには書きません。いや、どこにも書きません。直接お会いした人にだけそっとお教えします。
さて、昨日、11月12日には、別にわたしの知る、ある人が亡くなりました。
昨日の新聞切り抜きのこと。
足立先生から宮崎翁への封筒の中に入っていたもの。
画面をクリックして読んでみて下さい。
いい随想ですねえ。
冒頭、満70歳で日本文芸家協会から長寿会員としてお祝いを贈られた話が。
時代でしょうか。実はわたしはこの夏、71歳になった。だれもお祝いをくれない。
そして中ほど。
富田砕花翁の「一番充実して仕事ができたのは七十歳代です」という言葉。
実は足立先生は72歳でお亡くなりになるのだが。
色々と考えさせられます。
あ、この足立先生から宮崎翁へのお手紙で分かったことは、神戸の「あかつき婦人学級」というご婦人の勉強会の講師が、足立先生から宮崎翁へバトンタッチされた時期です。昭和58年ということでした。それから31年経っているんですねえ。「あかつき婦人学級」は今も続いているのだろうか?
足立巻一先生は、日航機事故二日後の、1985年8月14日にお亡くなりになった。
テレビのニュースに出て、わたしは強い衝撃を受けたのだった。
後日聞いた話では、ベッドのそばには事故を伝える新聞があり、「ぼくの教え子が乗っていた」とショックを受けておられたと。
そこでわたしは、もしかしたら先生は、新聞記事の搭乗者名簿に「イマムラキンジ42歳」とあるのを見てそう思われたのではなかったかと考えた。
後に、ほかの教え子が乗っていたという話もついぞ聞かなかった。
真相は分からない。
でも、わたしの胸には未だにある種の傷となって残っている。
数年前に「夕暮れ忌」はなくなったが、毎年8月はわたしに強い思いを起こす。
先生の命日。家内の誕生日。わたしの誕生日。
そして最近では、fumiの誕生日。
29年前の日航機墜落事故のドキュメント放送をしている。
忘れようとしても忘れられない事故。
乗客の中に「イマムラキンジ」という人があった。
ニュースでカタカナによる乗客名簿が写されて、わたしは愕然とした。
自分が乗っている!...
なにか変な感じ。
直後に電話が何本もかかってきた。
「おっ、生きてるんか?」とか
「幽霊ちゃうやろな?」とか。
明くる朝にも、うちへやって来て確かめて
「足あるなあ」とか。
その「イマムラキンジ」という人は年齢もわたしと同じ42歳だった。
それで余計に、わたしは死んだと思われた。
飛行機嫌いやのに何で?と思われた。
この話には続きがあるが、また。
前の記事に関連して。
「KOBECCO」6月号から、宮崎翁の話を元に田辺さんのことを書いている。
エピソードはいっぱいあるようで何回書くことになるか分からない。
出してきた資料に昔の「神戸っ子」のコピーがある。
1964年の3月号。丁度50年前。
この号に座談会の様子が載っている。
出席者の顔ぶれがスゴイ。
田辺聖子、陳舜臣、足立巻一、安水稔和ほか。そして司会を赤尾兜子。
安水先生、まだ32歳だ。写真がお若い。
田辺さんは芥川賞を受けられた直後。ここでの足立先生の発言が面白い。
いずれ、「KOBECCO」に使わせてもらおうと思っているので、ここには紹介しません。悪しからず。