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喫茶 輪

コーヒーカップの耳

「資料なき所に文化なし」

2019-09-03 16:00:42 | 足立巻一先生
昨日「花森書林」さんで入手した「階段」9号をパラパラ見ていて、「ほほう」という文章に出会った。
当時(1992年)の神戸文化会議議長の服部正氏が書いておられる「資料なき所に文化なし」。


←二段階クリック。

第一行目にいきなり足立巻一先生の名前が出てくる。
こんな箇所がある。
《大阪社大学長(大阪府副知事待遇であった)在任前後から、癩学の魔力にとりつかれ、社会学博士論文「負の文化としての癩」の後日執筆を期しての全国の癩者とその癩院の血膿が沁み込み、異臭を放たんばかりの資料の提供にあずかった。》
要するに「癩」、いまでいうハンセン病のことを書いておられる。
《わたしはいつか「癩女性史」の執筆を念じている。》ともある。
そして、
《陛下(平成天皇)はアマミの癩院を訪れ、病院内に入って一人一人に声をかけられた。史上最初のでき事である。(略)皇后とともに癩院の坂を登られたのである。》

癩(ハンセン病)のことは、以前から多少知ってはいたが、ドリアン助川さんの『あん』を読み、その映画を観てから、特に気になるようになった。しかし、27年前のこの冊子にその話が出てくるとは思いもしなかった。

そして文章の最後を服部氏はこう結んでおられる。
《故足立巻一等の文学資料館建設をという悲願の訴えを、無視黙殺し去った神戸市の文化行政は、往年の文化不毛の地神戸の蔑称を再び裏書きするつもりであろうか。》
なんか、かなり怒ってはりますね。

恥ずかしながら、わたしはこの服部正氏を知らなかった。
この1992年当時には、わたしの文化への目線もかなり低いものでしたから仕方がありません。
ところで、服部氏は、ここに書いておられる「癩女性史」は執筆されたのだろうか?
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『やちまた』と『ノンタン ぶらんこのせて』を交換

2019-09-01 08:42:28 | 足立巻一先生
昨夜、地蔵盆祭りの反省会を「喫茶・輪」で行いました。
会計報告などあって、食事会です。
といっても質素な食事なんですよ。
というのも、お供えした野菜などを食材に、家内を中心にした隣保のご婦人が手作りで用意するのです。
費用節減です。
中に、てっちゃんが参加してました。
まだ30歳代の男性です。子連れで参加してました。シングルファーザーです。
連れてきていたカンちゃんは2歳の女の子。
その子が店の書棚を触りまくっていました。

そして、帰りに、『やちまた』を胸に抱えて離さないのです。

持って帰るというのです。
それは困りますので『ノンタン ぶらんこのせて』を見せて「これを上げるから」というと、
「ありがとう」と言って『やちまた』を返してくれました。
実は『ノンタン』もわたしにとって大切な本ではあるのです。
その昔、娘のkiyoに買ってやったもので、娘の大のお気に入りでした。
何度も何度も読まされたものです。
そして時が移り、孫のkohやsatoにも読んでやり、特にfumiは大のお気に入り。
そんな思い出のある絵本だったのです。
でも、もう孫たちもこの本からは卒業しただろうと思って、カンちゃんに持って帰らせたのでした。

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ジャンボ機事故と足立巻一先生の命日。

2019-08-12 22:31:35 | 足立巻一先生
日航ジャンボ機の墜落事故から34年目だとのこと。
ということは、足立巻一(けんいち)先生がお亡くなりになってから34年ということでもあります。
先生は8月14日でした。病院のベッドに事故を伝える新聞が置かれていたと聞きました。
その新聞にはカタカナによる搭乗者名簿が載っていて、中にわたしと同い年の「イマムラキンジ」というのがあったのでした。
毎年思い出すことですが、大変でした。
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『懐想のアダッツァン』

2019-07-15 12:12:22 | 足立巻一先生
必要があってこんな冊子を読んでいます。



『懐想のアダッツァン』です。
兵庫県現代詩協会の催しでの、宮崎翁の講演のテープ起こしを冊子にしたものです。2006年のこと。
その年の「夕暮れ忌」に参会者に配布しました。
100部も作ってはいないと思います。
改めて読んでみて、宮崎翁の個性があふれています。
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不才なる人といへども

2019-04-22 19:34:11 | 足立巻一先生
足立巻一先生の「わが心の自叙伝」の切り抜きです。

←二段階クリック。

昭和57年8月22日の分。
「わが心の自叙伝」第8回目。
この回には、神宮皇學館時代からはじめた本居宣長、春庭の研究の成果、『やちまた』の出版記念会のことが書かれている。
約40年にわたって研究、執筆してきたものがようやく完成し、その感慨が。
最後にこうあります。
《宣長は「うひ山ぶみ」の中で、「不才なる人といへどもおこたらずつとめだにすればそれだけの功は有ル物也」と教えた。そのことばがみにしみて思われた。》
37年前にわたしはこれを読んで心打たれました。
足立先生は「不才の人」では決してありません。それでも足立先生はこの言葉を大事にされた。
比して、わたしは足立先生にその才、及ぶべくもありません。
だけど「それだけの功は有ル物也」でいいではないか、と思っているわけです。


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神の御名

2019-04-02 14:21:17 | 足立巻一先生
編集工房ノアさんからいただいた「海鳴り」31を読んでいる。
巻頭は「鈴木漠の世界展」の写真。これは兵庫県公館で現在開かれているもの。

その次に杉山平一先生の詩「忘れもの」が見開きに。
ちょっと怖いユーモアの詩。

次が山田稔さんの「本棚の前で」という随想。
《書斎の本棚の前に立って本の背をながめる。》という一行から始まる、かかわりのあった人のドラマ。
最後はこう結ばれる。《(略)やっと解放され自在になりかけたとき、彼の命数は尽きる。三輪正道享年六十二。》
心打つ文章です。

その次の「多田瑤子さんのこと」は、三十三回忌を迎える人(多田瑤子)のことを荒井とみよという人が書いておられる。
多田瑤子さんというのは、多田道太郎のお嬢様だと。瑤子さんは道太郎より先に夭逝する。
なかなかラジカルな文章だと思った。

次が天野忠さんの童話「枯木とひかりの子供」。
天野さんのちょっぴり皮肉な詩は大好きだが、これはまた素直な話だ。

次の「夏の詩人」(萩原健次郎)はちょっと飛ばします。

「めぐりあう」(島雄)に興味を持ちました。
ご自分が書き上げた小説『恋するひじりたち』『死にとうなかったひじりたち』を書き上げるまでの取材の遍歴、取材した人とのあれやこれやが書かれている。お寺や寺の住職などを取材しておられるのだが、面白い。元々わたしに仏教に対する興味があるからかもしれない。
盤珪という禅僧が出てくる。《幼年時代に海に出て死のイメージに恐怖を感じ、壮絶な修行を経たのち、生まれたままの不生なる仏心という悟りを得た盤珪。》と。
盤珪についてはわたしに思い出がある。
昔、ちょっと禅をかじった時に、ある大先輩(禅の)のお宅で盤珪の書を見せていただいたことがある。紙面いっぱいに「死」という文字が太い字で書かれていて、印象に残った。その字を示して、その大先輩居士は明かした。
「この字、ここ、なぞってあるのがまる分かり」と。なるほど、わたしのような素人が見てもなぞり書きがわかる。
こだわりがないというのか、豪胆というのか、であった。
ついでに書くが、その大先輩というのは医院を経営しておられた医学博士だった。
「この(死と書かれた)書は患者さんの見えるところには飾れない」と言っておられたのを思い出す。
ま、ほかにも興味深い禅僧が出てくるので、わたしは面白かった。機会があればその本も読んでみたいと思った次第。

次の大井浩一さんの「大阪 豊崎」。
大井さんは毎日新聞学芸部編集委員ということだが、わたしはこの人の文を初めて読む。さすがに上手ですね。
「豊崎」とは大井さんが幼少時を過ごした所。そのころの思い出が語られるのだが、自分の思い出に照らし合わせてみて(比べてみて)、大いに興味深い。こんな箇所がある。
《豊崎という地名は、遠く飛鳥時代にあった難波長柄豊碕宮(なにわながらのとよさきのみや)に由来するものらしい。》
そしてこんな文章につながって行く。
《(略)けれど、はるか古代の都に由来するこれらの土地の名前には、確かにある独特の、懐かしい響きが聞き取れるように思われた。》
ここを読んでわたしは激しく動悸する思いがした。

この写真を見て頂きたい。

この色紙、わたし毎日見ています。店に飾っています。
足立巻一先生の色紙です。「日本の詩は神名に始まると考えた」。
先の大井さんの文章と強く通じるものがありませんか。

もう一枚写真を。

これは拓本です。
播磨中央公園にある詩碑から取ったもの。
といってもわたしが取ったものではありません。
宮崎修二朗先生と、坂野訓子女史がお二人で取って下さり、わたしに授けてくださったものです。
この詩は『雑歌』(足立巻一著)の中にあります。微妙に文が違いますけどね。
←二段階クリックで。
本の上に置いた写真は拓本を取った時に撮ったもの。モミジの葉はその時拾ったもの。
本に挟んでありました。
本に挟んであったものにもう一つ面白いものがありました。
鈴木漠さんによる「足立巻一の詩」という8ページの講演録。2004年のものですね。楽しいエピソードが載ってますが、また機会がありましたら。



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『遮莫句集』

2019-03-24 15:10:51 | 足立巻一先生
馴染みの古書店さんから昨夜情報を頂いて、今日行ってきました。

そしてわたしの手に載せてくださったのが、この本。



触れなば、枯葉のごとくハラハラと零れてしまいそうな。

昭和25年の発行。
著者の西田遮莫は、足立巻一先生の名著『やちまた』に何度も何度も出てくる名前。
足立先生の、神宮皇學館での学友であり、後には義兄となった人です。
もちろん、この本のことも『やちまた』にはチラリと出てきます。
そろりとページを繰ってみると、感慨深いものがあります。
このこと、いずれどこかに書きます。
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アルカッシャの森

2018-12-09 08:40:46 | 足立巻一先生
昨日、ハンター坂のギャラリー島田へ行ったのだが、
ここへ行く時はいつも東門街を上がって行く。
そして途中で生田神社の東門から生田さんにお参りする。
そこの社務所に足立巻一先生の詩額が飾られていて、それに会いに行く。
←二段階クリック。

大きな額です。畳一畳分の大きさがあります。
名塩和紙に書かれています。
これだけのものを書くにはよほどの集中力が要るでしょう。
間違えれば貴重な紙が無駄になってしまいます。
素晴らしい字が書かれています。
見るたびに改めてその良さが分かってきます。

本殿です。

来年の干支、イノシシの大絵馬がありました。


神社裏のアルカッシャの森です(生田の森)です。


なにかイベントが行われていました。
巨大なクスノキ。

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「日本の古本屋」の「メールマガジン」に『やちまたの人』が。

2018-11-26 11:38:41 | 足立巻一先生
「日本の古本屋」の「メールマガジン」に涸沢純平さんが書いておられます。

https://www.kosho.or.jp/wppost/plg_WpPost_post.php?postid=4313&fbclid=IwAR1cxnuOonhwzI9uLX7iSvG7exK-neQTDhdg69vPy00V5pXGJz4nH48Yucg

足立巻一先生と杉山平一先生のことが感動的に。
 《本書では、特に杉山平一さんのことを書いています。
ノア「海鳴り」他誌追悼号に書いたものも、重複はあるが、収録。
その中で、杉山さんが足立さんのことを書いた文章を引きました。
 「集りなどで、足立さんの顔を見かけると、急に心がなごんで、近づいてゆく。
そこにはいつも、ふあーとした風が吹いている感じだった。…ヒューマニズムというのは、ああいうものだと思った」。
「ふあーとした風」は杉山さんそのものでもあったのです。
 文は人なり、文章と人の魅力、出版とは「やちまた」なり。の思いです。》


因みに、この欄にはわたしも昨年書かせて頂きました。https://www.kosho.or.jp/wppost/plg_WpPost_post.php?postid=3342
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足立巻一先生の書簡

2018-10-30 09:17:54 | 足立巻一先生
歌誌「六甲」523号だが
これに足立巻一先生の書簡が挟まっていた。



足立先生から杉山平一氏に宛てたもの。
足立先生の懐かしい字だ。

文中に、桑島玄二さんと富田砕花師の名前が。
たったこの一枚の短い書簡の中に、4人の文人の名前がある。
みなさん立派な仕事を残された人たち。
ところで「8の会」とはなんだろう?

追記
ご教示くださる方がありました。
《「8の会」は華道小原流の家元が、神戸にある本部の小原会館で毎年8月に京阪神の文化人を招待して催されていたパーティーの事です。年齢層を低くした「8若の会」というのもありましたね。》(U村)
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「六甲」の「虹滅記」

2018-10-29 09:51:30 | 足立巻一先生
先日杉山平一先生の御遺族にご提供いただいた「六甲」523号だが、



これに足立巻一先生の「虹滅記」が載っている。
←二段階クリック。

『虹滅記』の「あとがき」に、第一回は「天秤」に載せて始まり、しかし連載途中で「天秤」が休刊になり、後、
《神戸で短歌雑誌『六甲』を発行する山本武雄氏の好意により、同誌の昭和54年10月号から昭和56年10月号まで連載することを得てほぼ稿を終え、終章を書きおろして完稿した。》とある。
で、わたし、六甲の「虹滅記」を読んでみました。
「第八章 菰川」9・10が4ページにわたって載っています。
ところがちょっとした違和感があり、本になっている『虹滅記』の該当するところを調べてみました。
すると、この「9・10」はないんですね。「7」までしか載っていません。
ということは、足立先生は、本にするときにこの部分を割愛されたということが分かりました。「六甲」の「9・10」も興味深いことが書いてあるのですけどねえ。
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神戸新聞詩の欄

2018-10-27 10:01:22 | 足立巻一先生
先日、杉山平一先生の御遺族から提供を受けたものの中に、
「神戸新聞」の詩の欄の切り抜きがあった。


←クリック。

これを見てわたし、あれ?と思いました。
選者はすべて、足立巻一先生です。
昭和52年から53年にかけての33枚。
中に、赤鉛筆で丸印がつけてあったり。
あれ?と思ったのは、足立巻一先生の『人の世やちまた』の自筆年譜と矛盾がありますので。
たしか、足立先生は「神戸新聞」の選者を昭和54年からと年譜にあったはず。
調べてみました。
←クリック。

やはり、1979年(昭和54年)66歳の所に「二月、神戸新聞読者文芸詩欄の選者となり、多くの知友を得る。」とある。
この「多くの知友を得る」というのが足立先生らしくていいですねえ。
投稿者に対しても決して上から目線ではない。
それにしても、54年2月とは!わたしが初めて書いた作品を特選に推してくださった、正にその月。

杉山先生の全詩集に載っている年譜も調べてみましたが、それには
「昭和52年3月 神戸新聞詩選者を足立巻一氏と交替。」とあります。
ということで、この足立先生の年譜は間違っているということがわかりました。

古い切り抜きを触っていると、懐かしい投稿者の名前があって時の流れを思い知ります。
そんな中、54年2月4日付の切り抜きがあったのに驚きました。
これには上にも書いたように、わたしが初めて書いた詩が載っているのです。
足立先生が何者かもまだ知らぬころです。
わたしの作品が載っている切り抜きはこれ一枚だけです。どうしてなんでしょう?


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33年。

2018-08-15 07:44:50 | 足立巻一先生
8月12日は日航ジャンボ機墜落の日。
毎年「〇年目の夏」などとニュースになる。
するとわたしは自動的に足立巻一先生を思い出すことになる。
先生はその二日後14日にお亡くなりになった。
日航ジャンボ機事故の記事の載っている新聞を枕元に置いて。
実は先生は、その前月、7月9日に狭心症の発作を起こして新須磨病院に入院しておられる。
その後、神戸市立中央病院へ転院し、そこで療養なさっていたのだが、
8月14日に急性心筋梗塞を起こし、ニトロペンの瓶に手を伸ばし、しかし服用する間もなく急死されたのだった。
病院に狭心症で入院していたにも関わらずお亡くなりになっている。
これはなぜ?と不審に思ってしまうが、その時代はまだ狭心症の治療が今ほど進んでいなかったのだろう。
わたしも先生と同じ狭心症で入院したのだが、即座のカテーテル治療で梗塞に進む手前で助けていただいた。
33年の月日は医療についても大きな差があるということですね。
ただ、この病気は再発の可能性があるので油断ならない。
昨日もリハビリ中に、病院の医師(主治医ではない)がそばに来てくださり、
「リハビリ、順調ですか?」と声をかけて下さった。
食事指導など、生活指導もしてくださる。
病院による、アフターケアーも進歩している様子である。
今の時代なら、足立先生もきっとお元気になられたに違いない。


〇30年以上も前の古い資料を出してきました。
 小さな原稿を書くためですが、必要なものです。
 
 図書館にはないものも。
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桑島玄二さんからの手紙

2018-05-03 16:00:12 | 足立巻一先生
探していたのは二点です。
そのうち一点が見つかりました。

桑島玄二さんからの手紙。
桑島さんの著書の間に挟んでありました。
もう一点の探し物は『海鳴り』6号です。3,4,5,7があるのに6号だけがありません。
それは、この桑島さんからの手紙に関するものなのです。
だから絶対にうちのどこかにあるはずなのですが。
小さな薄い冊子ですので何かに挟まっていても気づかないかもしれません。
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岡部伊都子さんと足立先生

2018-05-03 10:19:33 | 足立巻一先生
今、二階のわたしの書庫で、ある冊子を探している。
絶対にその部屋にあるはずなのだが、あまりにも乱雑なので見つからない。
その探索の中で興味深いものに出合って、ついページをパラパラとめくってしまう。
すると読みふけってしまい、また時間がかかってしまう。
そんなことが度々なのだが、その中の一つを紹介しよう。
ジュンク堂書店のPR誌「書標」の107号。1987年8月号である。
「ひとりの思いを点(とも)していました」と題された岡部伊都子さんの随想。
足立先生のことを書かれている。この人も足立牧場の一人なのだ。
因みに「足立牧場」という言葉は宮崎修二朗翁の命名。

さすがに一流の随筆家の文章は見事なものですね。

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