御託専科

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花見をどうする? -以前の日常の是と非-

2011-04-09 15:16:23 | 時評・論評
震災で自粛を言う人々がまず現れた一方で、震災だからこそいつものとおり(あるいはそれ以上に)贅沢をしよう、という声があがる。

どちらかを選択せよといわれるならば小生は間違いなく後者を選ぶ。喪に服する祈りの気持ちをぞけば、自粛というのは希少な物資をしかるべきところに優先して配分できるようにする行為である。たとえば千年とか二千年まえに同様のことがおきた場合において、近隣の村が年に一度の花見を自粛し、花見での蕩尽のために1年間蓄積した食料などを提供するのはもっともである。しかし、現在の高度化しまた「生活の必要」の範囲を大きく越えて発達した経済にはそうしたことは当てはまらない。 例えば関東在住者の自粛はおそらく何も生まない。関東在住者への供給者が震災地域への物資配分のため手一杯になっているということはないのだ。関東在住者の自粛は関東への財・サービス供給者の貧窮を招き、間接的に国全体の援助余力を減ずるだけである。 喪の気持ち、援助の気持ちは自粛ではない形で現そうではないか、とはもっともなことである。

しかし、反自粛派の立場をとるにせよ、少々の違和感は否めない。それは、「自粛前の生活に何の疑問もなかったのか?」という疑問である。 すごく象徴的にいってしまうなら、「あなたほんとに花見の宴会がしたい?」ということである。 正直言うと僕は昔から花見はあまりしない人である。年に一度きれいな花をじっくり見ながら宴席をしたいというのはよくわかるし、僕も昔は参加したものである。 しかしだんだんいやになった。ひとつは4月初旬の季節は外は寒いのである。単純に宴会に適さない。場所取りに何時間もかけ、寒くしばしば風も強い中で呑んだところで楽しくはない。もうひとつは、みんな花なんか愛でちゃあいない、ってことである。酔っ払いのどんちゃん騒ぎであればまだいい。会社の序列をそのまま持ち込んで酒を飲んで何が面白いのか。 さくらの枝ぶりなんて一言も話題にならない。 さくらは改めて別の日に眺めないといけない。

花見でえらく力んでしまったが、大なり小なりご賛同いただけるのではなかろうか。さっきも言ったように「生活の必要」の範囲を大きく超えて発達した現代社会の諸行為には、しばしば惰性で行われている大きな無駄、実はすきでもないのに(また稼ぎにもならないのに)やっていることがけっこう含まれている。そのことを大きく見直すよい機会であると思う。自粛といわず、生き方全体の再点検をしてみるのだ。

とまあこういうことがいえるのは、僕の住んでいるところが、致命的ではないにせよある程度の被害をこうむり、しばらくは被災地的生活が続いたためだと思うな。だから被災地外の人たちが相も変らぬ生活をすることを非難するつもりは全くない。 でも一言お伝えしておくと「2-3週間水道がとまりガスが止まるぐらいのことでも、生きるということへの見方が結構変わりますよ」と言っておきたい。