1月10日のブログで、琉球セメント屋部工場の粉塵公害に反対する地域住民の運動について説明した。1969年には8日間にわたって工場ゲート前に大勢の住民が座り込み、工場の操業を止めるという経過もあった。10日のブログは『うまんちゅのすくぢから』という本をもとに書いたものだが、今日(17日)、さらに詳細な資料を入手できた。
『公害反対闘争の記録---安和・勝山住民のセメント煤塵被害反対運動』(1977年 安和・勝山区煤塵対策委員会)という本だ。440頁もある大書で、1965年から1971年までの運動の記録が詳細にまとめられている。当時、まだ東大にいた宇井純さんも住民の交渉に参加され、本書にも一文を寄せている。
宇井純さんは、「この記録の重要性は、日本だけではなく世界的に大きい。自力で植民地の状態から立ち上がらなければならぬ南側の国々にとって、沖縄の小さな村がカイザーという巨大な多国籍企業と互角にたたかい、相手に頭を下げさせたという事実は、ちょうどベトナム戦争のような意味を持つものである」とこの運動を絶賛されている。
今、辺野古への埋立土砂が連日搬送されている屋部の琉球セメントにはこんな歴史があったのだ。先の本とあわせてじっくりと学習したい。
上の写真は1969年の区民総決起大会の会場からの琉球セメント屋部工場
1970年には、鉱山の発破作業で下の農道に落石が落ちるという事故もあった。また、桟橋を設置したために周辺の潮流が変化し、海岸の砂浜が流失したとも指摘されている。
40年前の旧桟橋の状況(『沖縄にありて 琉球セメント20年の歩み』(1981年 琉球セメント))より