乳がん患者のサロン2 - ノエル編

乳がん患者の皆様、このサロンでのびのびと雑談しましょう。くつろぎの場です。

小学校の「皆平等」教育

2009年02月16日 | 社会
専業主婦の集まりに出席するたびに感じるのが、誰も司会進行役になりたがらないことです。
私もなりたがりません。意見が言えなくなっちゃうからです。あ、でも、仕切るのは好きです。

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「小学校に「学級委員長」不在の鳥取県、20年ぶり復活へ」  2009年2月8日

 小学校でずっと学級委員長を置いてこなかった鳥取県。「リーダーを選ぶのではなく平等を重視すべきだ」との考えが教員にあり、徒競走でも順位を決めないほどだったが、この春、鳥取市の1校で約20年ぶりに学級委員長が生まれることになった。「横並びでは子どもの主体性が無くなる」という鳥取市教委は、各校に「委員長復活」を推奨している。学級委員長を置かない学校は全国的にも少なくないが、今回の動きはどんな影響を与えるか――。

 鳥取県内の19市町村の教育委員会によると、いずれの自治体も全校調査はしていないものの、クラスを代表する学級委員長はいないという。その代わり、図書委員、保健委員といった係と同格で、学級会などでクラスの意見をまとめる「運営委員」を置いている学校が多い。

 鳥取市教委学校教育課によると、同市内の小学校で学級委員長が姿を消したのは20年ほど前。当時、「他の児童を差別することにつながる」という意識が全市に広がったようだという。

 鳥取県では、広い範囲で教員が集まって指導方法を検討する「研究会」が盛んに開かれている。その中で学級委員長を置かない取り組みが「先進事例」として紹介され、広がった可能性があるという。

 県内の学校現場の「平等主義」は他にも例があった。運動会の徒競走で、児童の能力にあわせてコース内に「近道」を作ってゴール付近で接戦になるように調整する。学芸会で、一つの劇の主役を複数の児童が途中で交代して演じる――。「うまくできない児童の気持ちを最優先に考えるような時期があった」(同市教委)という。

 同市教委は昨年度、児童・生徒と保護者に「学級集団と人権教育」をテーマにした調査を実施。その結果、鳥取大学の一盛真(いちもりまこと)准教授(人権教育)は「身近な人間関係に立ち向かえず、仲間と問題を解決する経験が欠如している」と結論づけた。

 市教委は「集団を率先してまとめる存在がクラスにいないことが影響している」と判断。中川俊隆教育長は「社会性を身につける場を逃している」として、昨夏、教職員を集めた研修会で「子どもの成長に効果がある」と学級委員長の復活を求めた。

 「素直でまじめだが、自主的な行動が少なく物静かな傾向がある」。昨年4月、県内で初めての小中一貫校になった鳥取市立湖南学園は、児童の特徴をこうとらえている。その対応策として、同校は、新年度から小学5、6年生のクラスに「室長」という名称で学級委員長役を新設することを決めた。児童による学級、学校活動の活性化を目指すという。

 金田吉治郎校長は「リーダーがクラスをまとめ、みんなで支え合うことでチームワークを学べる。社会で求められるスキルだ」と意義を強調する。保護者からも「これまでのクラスは機会均等というより人任せだった」といった声が上がっているという。

 同校の動きに対し、市内の別の校長は「クラス運営の一つの方策だ。参考に見ていきたい」という。「委員長なし」の現状を肯定する教員もいるが、一盛准教授は「リーダーを含めてクラス内に多様な役割を置き、個性を生かして支え合う関係づくりを経験すべきだ」と学級委員長を設ける意義を強調する。

 文部科学省によると、学級委員長を置くかどうかの公的な決まりはなく、各学校の判断にゆだねられているという。

■ 学級委員長、他の役職と同格の場合も 福岡・東京

 クラスの代表として学級会の司会をしたり、全校の児童会の会議に出たりする「学級委員長」。学校によって名称は色々あり、同じ立場でも、「長」と付けず「学級委員」などと呼ぶところもある。

 岐阜大学の有村久春教授(教育学)によると、昭和40年代ごろまでは勉強ができる子などを先生が指名して決める形が全国的に多かった。それが、「民主的な教育」が唱えられた昭和50年代以降、クラスのみんなに役割を経験させようという考え方が広まったという。

 立候補を募ったり、輪番制で回したりといったやり方が進む中で「学級内のヒエラルキーが薄まり、新聞係、生き物係といったその他の担当と『同格』になる学校が増えた」と有村教授は指摘する。子どもの側も個人主義が強まり、リーダーシップを取りたがらないことも影響したようだという。

 それが「近年になって学級崩壊やいじめの問題が深刻化し、『民主的なリーダーシップ』を育てる必要性が指摘され始めた」。有村教授は、鳥取のケースもその一つではないかとみる。

 各地の例はどうか。福岡市ではかつて「学級委員」という名称のリーダーの役職があったが、最近は「代表委員」と呼ぶことが多く、「保健委員や体育委員と同じく、みんながなる役割の一つ」(市教委)になっているという。市内の小学校教諭は「個人主義が広がり、もしいま『学級委員』が復活したとしても、その子を中心に一つになるとは考えにくい」と話す。

 東京都教委は「役職を置いている学校は多いが、クラスの代表と位置づけたり、他の係の委員と同じ格だったりと、学校によってそれぞれ違う」。都教職員組合も「地域性や先生の考え方による。どの子にもリーダーシップの機会を与える学校が多いようです」という。

 一方、札幌市ではずっと「学級委員」などの名称で、クラスのリーダーを各学級に男女1人ずつ置いてきたところが多いという。市教委は「勉強だけでなく、自治的活動も含めて社会的な様々なことを学ぶのだから、クラスの代表は必要です」と話す。
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「できない子供がかわいそうだから、全員が主役を演じてセリフをしゃべる」の発想は、理念としては大切だと思います。私とて、片胸無しの「かわいそうな人」ですから、化け物扱いされたくないですし。
「できない」子を差別しない。差別したくなっちゃう社会をやめる、やめた、、、世界でなら、この論理は成り立つのでしょう。

でも実際は、できない子は差別されるかもしれない。片胸の無い人は、水着を着て公衆の面前には実際は出にくいのです。

できないと恥をかいたまま、落ち込むだけでよいのでしょうか?
「生きる力」の教育って、何でしょう??

>「身近な人間関係に立ち向かえず、仲間と問題を解決する経験が欠如している」
>「これまでのクラスは機会均等というより人任せだった」

かつて大学生と接した時期がありましたが、学生たちにもコレを感じました。なんか、友人関係にとっても気を使うんですよね。ケンカなんて以ての外って感じで。

消しゴム一つ、友人に借りれず職員に借りにくる。「なんで友達に借りないの?」と尋ねると、「私、友達いないんです」って、、、4年生になるまで、消しゴムを貸してくれる友達もいないって・・・(--)。

今時の子どもはイジメがこわい。
だから友人に気を使うんですね。イジメも随分変異を起こし、陰湿になっているから、自分で身を守らなくちゃいけない。というわけで、あまり深く人と関われないんじゃないかと。

それにしても、既に「絶対平等主義」にどっぷりつかっちゃった子ども達、今更方向転換って・・・(~_~;).。。救済措置はないのかしら?
個人を尊重し、横並び、、、これが社会に出たらいきなり、チームプレイに厳しい上下関係。すごーいギャップです。

「ナンバー1になれなくてもいい、君はオンリー1」。

“オンリー1”ばっか増殖したら、ウザイです。
まず、プライドは高くなりそうです。で、何かができなくても、「いいもん、自分しかできない○○を持ってるもん」ときて、できなくちゃいけない何かができないまま、、、だとしたら?
まあ、自分しかできない何かが、それなりに素晴らしいものならば、人は多少は目をつぶってくれるでしょう。


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なかのひと

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
平等=均一化でねえの? (けいこねえ)
2009-02-17 08:02:03
 おはよ~ございます!

 平等とは機会が与えられ、フェアーな競争が出来ることだったような、、、あれっ、違いました?
 実社会で、競争が無い訳ないですよねぇ。教師は生徒を均一化していたことに今更気がついたって事?
今、フランス革命時代(笑!)を抜け出したところでした。フランス革命は「自由平等」を掲げていましたが、ブルジョア階級が貴族を下剋上しただけだったことが最近判った平等教育を受けた私です。
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なるほど~ (ノエル)
2009-02-17 14:07:36
けえこねえさん

よく、米国人は突出して何かに才能のある人が出るのに、日本人は出ない、しかし平均値は米国人より高い。と言われますが、、、そうか、この鳥取市の教育って、まさに均一化をめざしちゃったんですねえ。

平等機会が与えられることは大切だと思います。
んで、機会が与えられたそのあとは???

それはもちろん、競争が待っているわけで(笑)。

フランス革命も、ブルジョアさんたちが下剋上したけど、結果、ロベスピエールの恐怖政治が行われ、さらに次の階級が下剋上したのでありましたっけね。

つまり、自由を勝ち得たら、そこにはやっぱり競争社会があった(爆)。

私は、政府がグローバライゼイションなんて単語を流行らすぐらいなんだから、子供には不平等社会で勝ち抜く術も教えた方がいいんじゃなかろうかと、ちと考えてしまいます。

世界中の、共産圏を除く自由主義国の教育って、そういう意味での生きる力を教えているような気がします。
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あはっ、納得! (けえこねえ)
2009-02-17 16:32:21
>結果、ロベスピエールの恐怖政治が行われ、さらに次の階級が下剋上したのでありましたっけね。

 あ~、そうか!「かんぽの宿」は官僚さんを、「民営化」で下剋上したら、更に次の階級の「外資」が下剋上しようって算段かな?
 均一化教育受けた私の頭脳じゃ、マクロ経済やら分析工学駆使した新自由主義至上の貨幣経済に太刀打ちできません。
そんな世界の猛獣たちの中使えないドル建て米国債を世界に恩を売って使って来た中川財相えらい!
ま~、日本人は農耕民族ですから国内的には皆仲良くは好きですけど、、、
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ダブルスタンダード (ノエル)
2009-02-17 23:16:54
そうですね、日本人は農耕民族だから、国内的には均一化という考え方は必要かもしれません。

で、商品を売ろうと世界へ出て行くと、そこには肉食民族も多数いるわけで、彼らのルールに従うか、もしくは強引に「私がルールよん」をするような国に成り上がるか(笑)。

米国なんて、小学生のうちから「株」の実践授業があるぐらいです、私はその教育には反対だけど。
ま、そーゆー国の人と競争することもあるのだから、「できない子がかわいそうだから、全員が主役」って授業ばっかじゃまずいと思いますね。
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