ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

私と言う女遠い記憶part15

2018年01月18日 | 介護
どれくらいの時間楽屋に居ただろうか?おそらく15分くらいは居たと思う。彼女の計らいでコンサートが見れることになった。無論自由席です。私は彼女に誘導されながら劇場の客席に続く入り口を教えてもらい、そこから自由席の客席に着いた。
私は舞台の彼女を見てから自宅に帰った。
それ以降彼女からは電話の一つもなかった。むしろコンサート会場の楽屋口で出待ちしていても他のファンと同じように扱われた。私はその時プレゼントされたブレスレットだかキーホルダーを大事に持っていたが、気がついてみたときにはどこかになくしていた。
再び話は戻すがあのもらったバスローブは母が勝手に入院している従兄弟の嫁に勝手に持っていってしまい帰らぬものとなった。何故ならその後従兄弟の嫁は亡くなったのである。私は母にバスローブの一見を責めたが、悲しかった。
弟は22歳で結婚をした。その時私も結婚をしなければと思った。ただ漠然と結婚をしなければと思った。何故なら彼女も一度結婚しているからに他ならない。あわてて父に結婚したいことを告げると父はお見合い相手を…。
お見合いの相手とは喫茶店で会った。左官屋か何かの職業でスーツが無いらしく9月のまだ暑い盛りにウールのジャケットを着ていた。相手はすぐにでも結婚したそうだったが、私はまだ暑い盛りにウールのジャケットの男が嫌だったので一度帰ってから断って欲しい旨を父に告げた。後から聞いた話では私が断ったことはショックだったらしいと言う話だった。
私はその後いくつかお見合いをするが、帯に短し襷に長しで、あちら良ければこちらダメ、こちら良ければあちらダメ見たいになった。それでは思いきって会社を辞めて花嫁修行でもと思い本当に会社を辞めてクッキングスクールに通い始めた。しかし、自宅にいると家事をする羽目になるのでしばらくしてまた職安で仕事を探し働き始めた。
新しく会社は週休2日だった。これならクッキングスクールに通えると思った。それ以前に他の習い事もしたかったが両親の反対にあい近所の自動車学校をどうかと言ったら自動車学校は行ってもいいと言われ行っては見たものの元々運転免許は欲しくなかったのですぐ辞めた。
新しい会社でも小さないじめはあった。職場に馴染めなかった。会社から何度か配置転換をされあっちこっちのデパートで働いた。どこへ行っても大なり小なりいじめはあった。
それでも良くしたもので職場の人に飲みに誘われたり食事に誘われることもあった。相変わらず帰りが遅くなる日は理由を言って自宅に電話しなければならなかった。
おこづかいも決められすべてを母の管理下に置かれた私はそれでもこっそり休日に今倉千代子さんの追っかけをした。その事は母にすぐばれこっぴどく怒られたことは言うまでもない。
クッキングスクールは一年で卒業証書をもらった。他に習い事をしたかったが全て両親に却下された。
その頃読んでいた月刊誌に毎月作詞募集があったので何度か応募したが!雑誌に名前とタイトルが載るだけだった。私は密かにプロの演歌の作詞家になることを夢見ていた。
何度か応募しているうちにその本の出版社から六本木の作詞教室のお試しがあることを知らせてもらい、、私は両親に話してそこに行きたい旨を伝えた。
が、しかし、それは父の反対にあい、それでもなんとかお試しだけ行くことが出来た。教室は夜だった。テレビ朝日の側の教室だった。講師は里村龍一先生でした。2時間程話を聞き帰って来た。そして私はそれ以来プロの演歌の作詞家の道はあきらめるのである。
度々話が前後するがそれは私が遠い記憶の糸を手繰っているので仕方がないことです。
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