ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

私と言う女遠い記憶part16

2018年01月18日 | 介護
遠い記憶の糸を手繰っている。従って話があっちこっち飛ぶこともお許しください。
あの日私が国際劇場の楽屋で彼女に渡したノートはとうとう返ってこなかった。私は本を書くという夢を諦めた。
どこで働いても大なり小なりいじめは付いて回った。多少良くしてくれる人もいてお茶や飲み会に誘ってくれることもあった。そんな矢先、私は池袋の三越に派遣された。
最初にここであったのは某新興宗教の勧誘だった。職場の周りのおばさん達が某新興宗教の熱心な信者だった。お昼休みや休憩時間などにおばさん達はやたらと某新興宗教の話をした。私はそれが嫌だった。とうとうある日私は会社の上司に話して職場を変えてくれるように頼んだ。しかし、ほどなくして職場に新しい人が入ると今度はその新しい彼女から嫌がらせに合うのであった。
その頃には私は某新興宗教の話などどうでも良くなり、その代わりに新しい彼女の態度が嫌になっていた。度々彼女は日曜日に休むのである。
その理由が「母の体調が悪いので…」とか「兄の嫁が仕事なので子供の面倒を見る!」とか言うことだった。兄の嫁が競輪場で働いていると言う。日曜日が仕事だと言う。子供が小さいので日曜日は保育園がやっていないと言うのである。嫁に代わった子供を見ると!また、母の体調が悪いというときは父が仕事で見れないとも言った。父は明治記念館で働いていると言う。
あまりにもひどいので私は明治記念館に電話するとその日は仏滅なので何もないと言われた。また義理の姉の競輪場も開催日があり、毎回日曜日が開催日とは限らないことを知るのである。
彼女は日曜日の度に彼氏とデートしていたのである。それは後にわかったことだった。私は忙しい日曜日の度に嘘をついて休む彼女が許せなかった。
その後やっとのことで職場を変えてもらうことになった。そしてその職場で私は32歳の夏まで働くのである。
32歳になった1月私は職場の近所のおばさんの薦めでお見合いをする。いい加減結婚をしたいと思っていた。それは両親の元を離れたかったのに他ならない。何故なら私は常に母の支配下にあった。私はそれを打開したかったのだ。自由になりたかったのだ。もう多少のことは目をつぶり結婚の道を模索していた。
お見合いした相手はやたらと小さな男であった。彼のことをどう思ったのかは定かでないが、1月にお見合いをして、何度かデートを重ねると仲人さんから「どうですか?」と、打診があった。私はもう少し付き合わないとわからない旨を伝えた。
少しすると再び仲人さんから「どうですか?」と、打診が来たのでok!を出した。とにかく自宅から出て自由になりたかった。
あれよあれよという間に5月に結納の運びとなった。そのうち10月に挙式の運びともなったのである。もちろん三十路を過ぎた娘に両親は反対するわけもなく私は10月の末に結婚式を挙げるのである。
結婚する前に主人になる人の趣味がオタクだとわかると私は密かに成田離婚を考えた。それ以前に新婚旅行中に仲人さんに話して主人となる人のオタクの趣味の物を処分するように話した。
あれは今にして思えば残酷だったかも知れない?しかし、新婚旅行中に仲人が主人となる人の両親に話、捨ててもらったはいいが、やはり私は成田離婚を考えていた。
新婚旅行から帰ると主人の両親が成田空港に迎えに来たので成田離婚は出来なかったのです。
私は主人の両親と自宅になる新居に帰った。帰った自宅に主人の趣味の物は大半を捨てられていて主人は悲しい思いをしたと思う。
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