ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

オワサン教会献堂式

2014年02月28日 | 日記


 
                    

                             



 オワサン教会は、霧雨の中です。
 山の中に張り出した腕のような形の峰のはしに建っているのです。建物の片側だけ「腕」に載っていますが、もう片側は、何メートルも下の段地から二本の柱を立てて支えています。
 車を止めるのも、腕沿いです。その両側は滑り落ちそうな斜面です。それにしては、大きな車(四駆のワゴン車)がじょうずに駐車できています。
 車の周りにも建物の周りにも、大勢の人がいるのですが、だれ一人として写っていません。地面が平らでないからです。

 小さな建物に見えるでしょうか。中は案外広いのです。二〇〇人くらいの人が集まっているのではないかと思われました。なんだか、床が揺れているような気がしたのですが・・・。


                             
   

 
 献堂式に間に合うように、前日床を張ったばかりだそうです。まだ、木が湿っているので、翌日には床を上げてもう一度干すのだとか。
 そんなに急いだのは、日本からくる私たちを参加させて下さるためでしょうか。


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 実は、この教会は、アバダン教会と言う大きな教会の枝教会なのです。母教会にあたるアバダン教会から長老さんが三人、ひどい悪路を毎週三時間かけて通い福音を伝えたのだそうです。

 それから、一年と半年で教会堂を献堂する運びになったのです。
 これは、日本では考えられないほどのスピードですが、ルソンの山の中なら、なお考えられないことなのです。

 どんな場所にも何らの宗教か、または、宗教的習俗があります。
 オワサン村では、占い師がいて力をふるっていたそうです。人々は、豚や牛をささげて、占い師に占ってもらったり、病気の癒しをしてもらっていたのです。


 献堂式には占い師の女性も出てきて、お証しをしました。
 彼女が福音をどれくらい理解しているかはとにかく、この転身は村中の人にとって大きな出来事だということです。なぜなら、占い師は、代々続いた家であり占い師を頼りに生きている人も多いので、彼女が、占い師をやめると困る人もいるからです。


 ともあれ、村中の人が総出で集まるお祝い会になったのです。


                        


        写真・賛美(歌)を歌って喜ぶ人たち、
           聖歌の歌詞、これは山にいる間ただ一度見た印刷物です。
           東京では何でもコピーして印刷物があふれていますが、
           ここではコピー機がありません。
           このようなコピーを用意しているところに、
           みなさんの献堂式への意気込みが感じられます。


                   
 
        写真・お祝いの食事の用意。会堂から見下ろせる棚地で男性が食事を作っています。
           大切な日には豚を殺して料理するので、男の仕事なのだそうです。
           部屋の隅で、しゃがんで果物を切っていた女性たち、
           彼女たちが完成させた果物のディスプレイに驚きました。
           スイカのフルーツカービング注目!!










   

  

  

  


霧と雨・ルソン・高嶺でのお祝い会

2014年02月27日 | 日記




                                 


     写真・献堂式のお祝いを待つ子供たち、きれいな服を着ています。



 翌朝は、五時半起床、六時半出発でした。
 「ウワー、きつい!」と思いましたが、仕方ありません。

 行き先は、オワサンというルソンの山地でも、もっとも高嶺にあたる場所。
 そこで教会の献堂式があるのです。

 このブログでは、しばしばクリスチャン用語が出てきて、ノンクリスチャンの方には申し訳ないのですが、要するに教会堂の落成式を、クリスチャンは「献堂式」と呼んでいるのです。

 ここで、もう一つ、解説させていただくと、教会と教会堂は別物だということです。
 教会とは、本来、建物を意味する言葉ではなく、信徒の集まりのことなのです。「神に召されたものの集まり」と訳せるそうです。
 ですから、もちろん、特定の場所、例えば、十字架のある三角屋根の建物でなければ教会を建てたことにならないなんてことはありません。

 一つの例ですが、私が私の住まいを使って「教会」とすることもできます。ただし、教会と言うかぎりは、神様に対して責任がありますから、毎週礼拝会をしなければいけませんし、不特定多数の、見知らぬ人が入ってくることも拒めません。祈り会や、聖書研究会も開いたほうがいいでしょう。
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 日本は雨が多いですし、冬は寒く夏は暑い、ふつうは隣近所が近いのですから大きな声で讃美歌を歌ったりすると迷惑なかたもいます。やはり、専用の教会堂が必要になるのです。

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 さて、二月一日の早朝です。

 キッチンには、数人の女性と牧師と村人が食事とコーヒーを用意して待っていてくださいました。
 水道は台所に、日本では見ることのない旧式の蛇口がひとつ、顔を洗おうと水を出すととても冷たいのです。牧師夫人が、やかんで沸かした湯を大きな洗面器に入れて水を埋めて下さいました。
 ガスは、プロパンのようでした。

 
 一歩外に出てみると、雨でした。
 見送りを受けて、いざ出発です。
 献堂式が朝九時からだとか。オワサンまでは、ゆうに三時間かかるとのことで、運転の吉原宣教師が気にしています。
 「九時だと言ったら、十時だよ。それがフィリピン時間だから」と、S牧師は余裕です。
  車を二台連ねて、泥道の中へ。前夜のがたがた道が泥になって、いくらか揺れはましになりましたが、
  運転するのは大変のようでした。

  



                   










2014年02月26日 | 歌う






     人知れず 咲いてこぼれる 梅の花 
                     戸締めの家に 主(あるじ)もなくて



     せつなさは まばゆい誘い 梅の花 
                     それとも日差しの道行く人影




         つと、春の近さに気がつきました。








    
   

がたがた道と教会と星空と

2014年02月25日 | 日記



               



 足湯のような浅い浴槽の温泉でしたが、熱い湯がふんだんに出ることがどれほど快適か知りました。
 アゴーのゲストハウスも水シャワーでしたし、神学校の宿舎でも水に近いような湯しか出なかったのです。風呂はなし。水シャワーと事前に聞いてはいましたが、暑いフィリピンを想定していたのです。


 そんなわけで、とりわけ、女二人は上機嫌で「風呂上がり」を、顔にクリームを擦り込んだりして楽しみ、休憩所で髪を自然乾燥させながら、「命の洗濯をしたね」と笑いあったのでした。


 風が冷たくなり始めたころ、一行は車二台に乗り込みました。

  
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 そこからは、山道を上るのではなく、山間の盆地に下って行くのです。
 3時間ほどドライブして、ボギヤス村というさらに奥地の教会を訪ねる予定でした。
 最初のうちは、下り坂の快適なドライブでしたが、とつぜん未舗装のがたがた道に入りました。
 その揺れること!! 未舗装の道の揺れる感覚など、久しく忘れていました。
 
 初めは笑ってキャーキャー言っていましたが、そのうちに、笑ってばかりいられなくなりました。
 まるで、シェイカーの中の氷のようにあちこちに揺すられ、打ち付け、首が折れてしまうのではないかと思うほどです。

 「せいぜいあと20キロくらいだから」と言われましたが、その道の長かったこと。
 フラフラになったころ、真っ暗な山の中に、ようやく、車は停車しました。

 あたりに大勢の人が懐中電灯を持って立っていて、降りるとかけ寄ってきてくれました。

 男の人たちが、車のうしろから荷物を運び出しています。
 はるか100メートルほど先に、ぽつんと明かりが見え、そのあたりにも人がいるのがわかりました。

 足元から、建物まで古タイヤが飛び石状に置かれているのがわかりました。あたりは湿地らしくて水が見え、タイヤを飛びながら行くのです。こわごわタイヤに足を載せると、なんとやわらかい、古タイヤにしてもペコペコすぎるのです。
 よろけた時、さっと手が差し伸べられました。私の胸くらいまでしかない小さな女の子で、片手にライトをもち、もう片手で私を支えて、走り始めました。

 「こんな小さな女の子が」と思いましたが、その力の強いこと。彼女は水のなかを走って、リズミカルに私の「タイやとび」をリードしてくれるのです。
 よろけても必ず支え、そのタイミングも抜群でした。やがて、建物の玄関に着きました。


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 外階段から二階に案内されました。「ようこそ」とたくさんの手が差し伸べられました。
 暗い部屋にお茶と食事が用意されていました。教会の屋根裏は、食堂と部屋が三つほど仕切られていて、手前の部屋が女性二人の部屋でした。入り口はカーテンで、ベッドらしきものも一つ、ひと目でかなり厳しい宿泊になりそうなのがわかりました。


  
       

 お茶と食事のもてなしを受けて、階下の礼拝堂に行きました。日本のふた昔前の建築作業現場の小屋のようなバラックの建物です。


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 大勢の人が集まって、礼拝を待っていました。
 遠い国から来たゲストを迎えて下さる真剣な目が、たくさん注がれていて緊張しました。

 もちろん、教会は、国籍や人種を超えた世界なのです。

 私たちは、同じ主(しゅ)――「父なる神」の子どもで、みんな兄弟姉妹なのです。
 「私たちの国籍は天にある」のです。

 礼拝が始まると、すぐに、そのような一体感が会堂を満たすのです。


 
                
 

  子供たちが大勢来ていました。 先ほど、私の手を引いて湿地を導いてくれた子はどの子だろうと思ったのかもしれません。何人かの女の子の写真を撮っていました。

             


 部屋に上がる前、夜空を見上げると、なんと満天、天の川でした!
 何十年ぶりに見る本物の星空です。






         


 
  

 

 
        

   

聖会と温泉

2014年02月25日 | 日記


 1月30日、ローの夜は、大学の講堂で開かれた地域壮年男子の「聖会」への参加でした。

 「聖会」は、キリスト教界の用語だと思います。私たちは一つの地域教会の集いとして礼拝する場合、「礼拝会」「祈祷会」などと呼んでいます。毎週日曜日に礼拝する日曜礼拝が代表的なものです。これは、まさに礼拝と祈りを中心とした集会です。聖書を勉強することや、教会の運営などについては、また別の名前で呼ばれます。

 聖会は、クリスチャンたちが個々の教会の枠を超えて集まる、教会横断的に開かれる礼拝会です。
 教団単位で開かれる「聖会」や地域教会が集まって行う「聖会」、単立であってもゲストなどを招いて特別に行う「聖会」もあります。


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 聖会の前に、食事会がありました。近くの教会で食事が出され、集まった人々はまず、歓談しながら腹ごしらえです。



                   

         写真、教会の中から教会の前の駐車場まで食事の用意がありました。

 日本で言えば小学校の体育館くらいの広さの講堂がほぼ満員でした。あいさつや賛美(歌)、お祈り、証しがあり、私たちも一応壇上で紹介を受けました。

 聖会は、夜が第一部。翌朝五時半から祈り会、八時半から第二聖会、十時半から第三聖会と続くことになっていました。 参加者は、知り合いの家に泊まる人、車の中に寝る人、でなければ、その床に寝るとか。



                 


  写真・アレックス先生とS先生、お証しをする人、夜の聖会、昼間の聖会


 私たちは、大学のゲストルームに泊まることになっていました。


 ゲストルームは、二階建ての建物で、一階がリビングルーム、トイレ、シャワー室。二階に部屋が三室ありました。女性二人が一室。男性は二人ずつ分かれて二部屋に入りました。
 ここで、初めて、2000メートルの山の寒さを体験しました。寝具はタオルケットが数枚。しっかりした毛布やふとん、暖房器具がないのですから、ダウンのコートを着ていてさえ寒くて眠れません。夜中に起きて、服を重ね着し、ホッカイロを貼って改めて眠ります。その時、足を滑らせてベッドの角で唇を切ってしまいました。
 翌朝、医者のF先生に診てもらうと、「かすり傷だ。縫う必要なはいよ」とやさしく。
 難民キャンプで重症者をたくさん見てこられた方から見ると、ほんとかすり傷に違いありません。
 確かに、血は止まっていましたが、できれば抗生物質をと思うのは、東京スタイルですね。電話すれば救急車が来るような場所ではないのですから。まあ、帰国まで傷のせいで、食事をうまく食べることができませんでしたが、良い思い出です。


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 朝の祈り会はキャンセル。私は、(S牧師の説教があったのですが)、聖会も欠席しました。自分の教会に短い劇を書いて送る期日が迫っていたからです。午前中かけて何とか書き上げ、それまでに撮った写真をパソコンに落とし、整理しました。



                   

          写真・果物の朝ごはん、

                   さて。何だかわかりますか。 


                     




                    温泉です。!

     31日、次の村に移動する途中温泉に入ることができました。
     なんといくつものブースになっていて、ホースからは流れ放題のお湯。
     しょっぱい味でしたが、いい湯だなあ!でした。やっぱり日本人! 
     日本に働きに来ていた人が、自然状態の温泉をこのような施設に作ったそうです。
     私たち一行以外にお客はいませんでした。もったいない!