ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

「右の頬を打つ者には、左の頬も向けなさい」

2018年04月29日 | 聖書



 今日の新約聖書通読エッセイも有名な箇所なので、転載します。
 新約聖書の戒めは、厳しすぎるとお感じになるでしょうか。
 

 



 「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。(マタイの福音書5章38節)
 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪いものに手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(39節)




 聖書やキリスト教を知らない人でも、聞いたことがあるはずの有名な言葉です。

 「右の頬を打つ者には、左の頬も向けなさい」は、究極の道徳というより、クリスチャンを揶揄するために使われていることさえあります。

 なぜでしょう。誰にもできないことだからです。
 もちろん、どのような抵抗もできない状況だったり、相手が強くて一方的に殴られたりする場合は、このように見える場面もあるでしょう。しかし、ふつうは穏やかな気持ちで、(それが神の御心ならと思って)、左の頬を向けることなんかできません。
 私なら、力がありませんから、殴り返すことはできないで、防御の姿勢を取るだけでしょう。けれども、心の中で間違いなく怒りと恨みを膨らませるでしょう。


 旧約時代には、「目には目で、歯には歯で」と、等価報復が許されていました。(出エジプト記21章24節) これは、「手には手を、足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷」(同25節)と続くのですから、かなり恐ろしいですね。

 今の文明国では、もちろん報復であっても「暴力」は犯罪です。ですから、損害に対しては警察に訴え、裁判にかけてもらって、補償を要求します。今日のような整った警察力や法制度がなかった時代には、私的報復(仇討)をしたのでしょう。しかし、報復はどうしても「やりすぎ」になるので、「目には目で」と、決めたのです。


 イエスは、この報復が等価であっても、やってはいけないと戒めているのです。
「右の頬を殴られて、左をも向けなさい」!! 
 ああ!!と悲鳴が出そうです。ここでも、イエスは、これが神の基準だと示しておられるのですが。





妻を離別するものは、

2018年04月27日 | 聖書



  昨日の聖書箇所の続きです。
 「心にみだらな思いを抱いて女を見る者は、すでに姦淫したのです」は、難解でした。

  さて、次の言葉はいかがでしょう。


   
★★★★★


 また、『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。(マタイの福音書5章31節)
 しかし、わたしはあなたがた言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。(32節)




 この箇所も難しいですね。今の価値観で考えれば何が問題なのかわからない。

 31節は、旧約の戒めに由来する言葉です。記されているのが申命記ですから、神の戒めというよりそういう慣習があったとみるべきかもしれません。

 妻を離別するときに、離婚状を与えたのは、彼女に「配偶者がいない」証明のためでした。それで、離婚された妻の再婚を、容易にするためでした。旧約聖書の世界は「男社会」です。女性は、現代の先進国のような意味では、独立した人格と認められていませんでした。女性は、結婚するまでは、父親に属し、結婚したら夫に属したのです。儒教の三従の教えのようなことは、旧約聖書のおきてのどこにも書かれていませんが、「だれの物でもない自由な立場」の女性はいなかったと見るべきなのでしょう。

 結婚相手がだれに属しているかは重大なことでした。結婚している女性と関係をもてば、それはたちまち「姦淫の罪」を犯すことです。姦淫の罪は石打(死刑)でしたから、いまで言う「不倫の果ての略奪婚」などありえません。


 旧約聖書のおきての下では、女性からは、離婚を申し立てることはできませんでしたが、男性は、何か気に入らない理由があれば妻を離別できたのです。女から見ると、まったく理不尽だと思いますが、日本の武家社会、また明治憲法下の男女関係も同じでした。歴史的に見て、世界中でこのような不公平がまかり通っていたのでしょう。そこで、離婚する男は、せめて「離婚状」を妻に渡したのです。妻が、再婚しやすくなるためです。これが、申命記24章1節に書かれていることで、モーセの律法といわれています。


 人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべきことを発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女に手渡し、彼女を家から去らせ、(以下略)


 古代イスラエル――当時のユダヤ社会では、このおきてを根拠に、夫からの離婚が案外自由に行われていたのかもしれません。

 イエスは、そこに、くさびを打たれたのです。
 妻を離別する者は、つまり妻が再婚しやすいように離婚状を与える者は、妻に姦淫を犯させると言うのです。
 さらに、離婚した女を娶る男も、姦淫を犯していることになる!!! これが32節の意味です。





 不貞や不倫は、現在ともに暮らしている配偶者や恋人との関係で考えます。別れた恋人や夫に義理立てして(昔の人はみさおを立てるなどと言いました)二度と再婚も恋愛もしない人は、感動的であっても、そうすべきだとは、だれも思いません。


 ところが、イエスは、ここで、男女の関係を、タテの時間軸でごらんになっているのです。
 たとえば、私さとうが、結婚し、離婚し、再婚した場合、それは姦淫だというのです。誰に対してでしょうか。多分、最初に結婚した相手に対して姦淫になるのでしょう。このような考えはもちろん、当時だけでなく、いまの時代の倫理にそぐわないのです。運悪く離婚するようなことになった女性が、もう一度、別の人と結婚生活をやり直すのはむしろ勧められることです。

 これをだれも、最初の夫に対する姦淫だなどとは思いません。しかも、その責任は、女性にあるのではなく、離別した夫が、再婚した元妻に「姦淫を犯させる」と、イエスは言われます。
 また、離別された女性と結婚する男も、姦淫を犯す。つまり、「離婚状」は無意味だと、イエスは仰せなのです。神の目には無効だということでしょう。




 これを理解するのは、神が結婚をどのように設定されたかを、創造の初めにもどって考えなければならないでしょう。


 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1章27節)


 つまり、男と女が一対であって、初めて、「神のかたち」を生きることができる者として造られたと書かれているのです。。
 神は、形をお持ちでない方です。その神にかたどられたとは、その霊的部分、愛や聖さ、正しさを受け継ぐ者としての存在です。
 ここで、イエスは神である方として、人に、「生涯同じ相手と連れ添うべきであると、表明しておられる」のではないでしょうか。それが、このような諭しとなっているのではないでしょうか。

  ほんとに、深くて、新しい教えに、驚くばかりです。











情欲を抱いて女を見る者は。

2018年04月26日 | 聖書




 毎日書いているもう一つのブログの新約聖書通読エッセイから、今日の記事を転載します。キリストは、有名な山上の説教で、十戒のひとつ――「姦淫してはならない」に対して、さらに突っ込んだ見解を伸べられました。
 とても難しい戒めとして知られていますが、しかし、ある意味、びっくりするほど、今日的です。

 現代は、性的魅力を楽しみ、冷やかし、誇示し、商品、商売にしている世界です。
 情欲とはなにか、あらためて考えてみても良いような気がします。




    ★★★★★


 姦淫してはならないと言われたのを、あなたがたは聞いています。(新約聖書・マタイの福音書5章27節)
 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(28節)
 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ヘゲナに投げ込まれるよりは、よいからです。(29節)





 少し前の事ですが、ある評論家がこの聖書箇所を上げて、雑誌にコラムを書いていました。
 「情欲をいだいて女を見ただけで姦淫したと言われるなら、男はだれでも毎日姦淫している。人ごみを歩いたら視線が行く女性はいくらでもいるから」

 これは、俗受けのする意見です。男性に限らないと思います。女性でも男性を見るとき、どこにも性的関心がないとは言えません。異性の魅力とは性的魅力だという向きもあります。最近でこそ、セクハラや電車の中での痴漢行為が、厳しくとがめられるようになりました。
 しかし、わずか40年前ごろまでは、「男の視線を引き付けるような女性が悪い」という意見が、むしろ当たり前でした。レイプなども公にすれば、女性の価値が落ちるということで、泣き寝入りする人も多かったのです。

 イスラムの世界などでは、女性が顔や体の線を見せないようにする。また、人前に出ないようにする、男性との接点は家族だけにするという規則があるようです。たしかに、目でみだらな思いを抱くのが、「男女の自然の状態」であるとすれば、男女の間に壁を設けて見えないようにするのは、罪を犯させない一つの方法かもしれません。


 十戒は、昨日も見たように、「殺してはならない」の次に、「姦淫をしてはならない」を置いています。古い戒め(旧約聖書)が示していることは、文字通り、婚姻関係以外でセックスをしてはならないの意味です。

 でも、イエスは、じっさいに、姦淫をしさえしなければよいと言っているのではないのです。「見えたもの」から、みだらな思いを持つこと自体が、姦淫だとさとしておられるのです。





 この箇所は、21世紀になって、やっとホットな社会問題になってきたセクハラ事件の中で生きていますね。イエスが、姦淫をここまで突き詰めて、話していたのは、やはり、神の子だからですね。
 2000年前の人はおろか、いまの大多数の人でも、「目に情欲をいだいて女を見る」ことが姦淫であるとは、理解しがたいことではないでしょうか。
 ところが、この教えも、昨日の聖書箇所と同じ解釈ができます。「実際に殺すこと」と「ののしるのこと」の間には、大きな開きがある。同様に、情欲をいだいても、じっさいに「セックスしなければよい」と考えるのが、分別だったりするのです。むしろ、そのような分別ができる人が、常識のある社会人であるのです。

 けれども、次から次へと出てくるセクハラ事件は、「常識ある社会人」が起こしているのです。なぜでしょう。心に情欲をいだいて女を見るとき、すでに、人は姦淫への扉を開いているからです。

 これが、神の基準ですね。
 もちろん、それを守るのは不可能なのです。その不可能に気づくとき、私たちは自分の罪に気づくのだと思います。
 イエス様は、自分は完全だ、立派に生きていると考えている人たちに、自分の罪を気づかせようとされているのです。


 キリストの基準は、これをクリアしなければ合格できない入学試験のようなものではなく、自分が、とうてい神の基準に達しえない人間であることに気づいて、人が神の前に首を垂れるために、問われているのだといわれています。












ブログのデザインを元に戻しました

2018年04月20日 | 日記






    ブログのデザインを、以前使っていた「ゆり」のデザインに戻しました。

    やっぱり、かわいい系はもう無理だったみたいです。

    惑い、惑いがちなさとうを、今後ともよろしくお願い申し上げます。