第3課は、神の国が実際に到来し、
だれもが体験できる「現実」であることが
聖書に基づいて解説されています。
神の国第3課「神の国の到来」
Ⅰ 到来の宣言とれ
ⅠA キリストの誕生
ⅠB キリストの働き 自然の世界
霊の世界
人間の世界
Ⅱ、神の国の体験
Ⅱ、神との交わりの回復
Ⅱ、私たちの内に住んで下さる神の霊
Ⅲ、神の国での成長
ⅢA 人間の良い性質の回復
ⅢB、価値観の変化
Ⅳ. 神の国の保証
このように、神の国に入ることは、良い事ができるようになることで、良い事をするのが当り前なのです。神を信じていると言いながら、実際の生活に何の変化もなく、良い行いも生まれてこないのは、その信仰に問題があるからです。(エペソ2:10、ヤコブ2:14-26) この、良い事ができるという事実が、いま神の国に入っている証拠(しょうこ)であり、やがて来る完全な神の国に入る保証なのです。
Ⅳ.A. 神の国の裁き
キリストの神の国の教えに、さっと目を通すだけですぐに気が付くのは、現在の神の国に生きている者に対する「裁(さば)き」とでも言える、けじめの時があることです。いちど、現在の神の国に入った者すべてが、そのまま来たるべき完全な神の国に入るのではないのです。(マタイ7:21-23、13:24-52、18:21-35、 20:1-16、22:1-14、24:45-51、25:1-46)
キリストの教えを要約してみると、来るべき神の国に入る事ができるのは、「与えられた働きに忠実である」「弱い者、小さい者に愛の手を差しのべる」「いつも注意ぶかく、手抜きをしない」者、ということになります。
これでは、「自分にはとても無理だぁ」と、匙(さじ)を投げてしまいそうになります。ところが、キリストの教えは福音(ふくいん)、すなわち喜びのおとずれです。決して無理な要求がされているのではありません。なぜなら、現在の神の国に入れられた者は、神の力によって支配され、罪の拘束から解き放たれ、善の力を回復させられ、良いことが「できる」ようにされているからです。現在の神の国に入っていながら、来るべき神の国に入れないというのは、神によって「できる」者にされたという事実をないがしろにして、まるで、神の国に入っていないかのように生活した者だけにおこることです。もうひとつは、実際(じっさい)は神の国に入っていないのに、入っているふりをしている者です。
さらに、一見、きびしい条件と映る教えも、じつは、こうあるべきだという目標が示されているのであって、これに到達しない者は失格という、入学試験のようなものとは違うのです。人間は心底よわい者で、たとえ、神の国に入っていても、まだまだ失敗もし、罪も犯します。キリストもそのことは充分ご存知で、ペテロを始め、ご自分を裏切ってしまった弟子たちに、腹も立てず、見捨てもせず、やさしく励ましてくださったのです。
キリストの素晴らしさは、四角四面、杓子定規(しゃくしじょうぎ)の法律論を振り回す学者ではなく、人といっしょに痛み、苦しむことによって、人の弱さ、悲しさ、そして、いとおしさを理解しておいでになることです。(ヘブル2:17-18、4:14-16、Iヨハネ1:8-2:2) ですから、現在の神の国に確実に入った者は、神に信頼して、神の力によって生きている限り、何も心配することがないのです。
Ⅳ.B. 聖霊の証印
したがって、私たちが現在の神の国に入っていて、神の力を体験しながら生活し続けるならば、未来の完全な神の国に入ることは、 保証されているのです。聖書はこの保証を、「聖霊の証印」という表現で教えています。(エペソ1:13、4:30) 現在、神の力を体験している人、病気が治され、性格が変えられ、生活も建て直され、人間関係も改善されている、怨霊(おんりょう)や死霊(しりょう)も怖(こわ)くないという、神の力の体験をしている人は、その体験自体によって、いま自分が神の支配の中、神の国に入っているという確証を得、やがて来る完全な神の国に入れていただける、保証を得ているのです。
※※※ まとめ ※※※現在の神の国に入っている者にとっては、その人が神に信頼しているかぎり、来るべき神の国が保証されているのです。神が守り、助け、支え、導いてくださいます。少しの心配もいりません。この世にいる限りはまだまだ失敗も罪も犯しまが、神はすべてを理解し、赦(ゆる)してくださるのです。