ノアの小窓から

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神の国3課 キリストの教えの中心をやさしく語る。 Ⅳ、神の国の保証(抜粋)

2017年04月06日 | 聖書


 第3課は、神の国が実際に到来し、
   だれもが体験できる「現実」であることが
        聖書に基づいて解説されています。


 神の国第3課「神の国の到来」

Ⅰ 到来の宣言とれ

ⅠA キリストの誕生
ⅠB キリストの働き   自然の世界
                霊の世界
                人間の世界


Ⅱ、神の国の体験
Ⅱ、神との交わりの回復
Ⅱ、私たちの内に住んで下さる神の霊


Ⅲ、神の国での成長
ⅢA 人間の良い性質の回復
ⅢB、価値観の変化


Ⅳ. 神の国の保証

このように、神の国に入ることは、良い事ができるようになることで、良い事をするのが当り前なのです。神を信じていると言いながら、実際の生活に何の変化もなく、良い行いも生まれてこないのは、その信仰に問題があるからです。(エペソ2:10、ヤコブ2:14-26) この、良い事ができるという事実が、いま神の国に入っている証拠(しょうこ)であり、やがて来る完全な神の国に入る保証なのです。


Ⅳ.A. 神の国の裁き

 キリストの神の国の教えに、さっと目を通すだけですぐに気が付くのは、現在の神の国に生きている者に対する「裁(さば)き」とでも言える、けじめの時があることです。いちど、現在の神の国に入った者すべてが、そのまま来たるべき完全な神の国に入るのではないのです。(マタイ7:21-23、13:24-52、18:21-35、 20:1-16、22:1-14、24:45-51、25:1-46)
  キリストの教えを要約してみると、来るべき神の国に入る事ができるのは、「与えられた働きに忠実である」「弱い者、小さい者に愛の手を差しのべる」「いつも注意ぶかく、手抜きをしない」者、ということになります。

  これでは、「自分にはとても無理だぁ」と、匙(さじ)を投げてしまいそうになります。ところが、キリストの教えは福音(ふくいん)、すなわち喜びのおとずれです。決して無理な要求がされているのではありません。なぜなら、現在の神の国に入れられた者は、神の力によって支配され、罪の拘束から解き放たれ、善の力を回復させられ、良いことが「できる」ようにされているからです。現在の神の国に入っていながら、来るべき神の国に入れないというのは、神によって「できる」者にされたという事実をないがしろにして、まるで、神の国に入っていないかのように生活した者だけにおこることです。もうひとつは、実際(じっさい)は神の国に入っていないのに、入っているふりをしている者です。

  さらに、一見、きびしい条件と映る教えも、じつは、こうあるべきだという目標が示されているのであって、これに到達しない者は失格という、入学試験のようなものとは違うのです。人間は心底よわい者で、たとえ、神の国に入っていても、まだまだ失敗もし、罪も犯します。キリストもそのことは充分ご存知で、ペテロを始め、ご自分を裏切ってしまった弟子たちに、腹も立てず、見捨てもせず、やさしく励ましてくださったのです。
  キリストの素晴らしさは、四角四面、杓子定規(しゃくしじょうぎ)の法律論を振り回す学者ではなく、人といっしょに痛み、苦しむことによって、人の弱さ、悲しさ、そして、いとおしさを理解しておいでになることです。(ヘブル2:17-18、4:14-16、Iヨハネ1:8-2:2) ですから、現在の神の国に確実に入った者は、神に信頼して、神の力によって生きている限り、何も心配することがないのです。 


Ⅳ.B. 聖霊の証印

  したがって、私たちが現在の神の国に入っていて、神の力を体験しながら生活し続けるならば、未来の完全な神の国に入ることは、 保証されているのです。聖書はこの保証を、「聖霊の証印」という表現で教えています。(エペソ1:13、4:30) 現在、神の力を体験している人、病気が治され、性格が変えられ、生活も建て直され、人間関係も改善されている、怨霊(おんりょう)や死霊(しりょう)も怖(こわ)くないという、神の力の体験をしている人は、その体験自体によって、いま自分が神の支配の中、神の国に入っているという確証を得、やがて来る完全な神の国に入れていただける、保証を得ているのです。




※※※ まとめ ※※※現在の神の国に入っている者にとっては、その人が神に信頼しているかぎり、来るべき神の国が保証されているのです。神が守り、助け、支え、導いてくださいます。少しの心配もいりません。この世にいる限りはまだまだ失敗も罪も犯しまが、神はすべてを理解し、赦(ゆる)してくださるのです。





神の国第3課Ⅲ神の国での成長(抜粋)

2017年04月05日 | 聖書



  本や・野の草が、近く発刊予定の本「神の国」の抜粋を掲載させていただいています。

  聖書における「神の国」とは、神の支配を受けるという意味です。神に似せて作られた人間が生まれつき持っている「善い性質」「聖い性質」に従っていくようになることです。
  キリストの教えは愛だと言われていますが、愛だけではとらえきれない広がりがあるというのです。
   キリストの教えの中心についてのこの解説にさとうは、目を開かれました。
  
   休み休みになっていますが、また、ご訪問下さい。本書は8課まであります。
   
   著者は日本アッセンブリ・オブ・ゴッド教団所属で、牧師、宣教師などの経験豊富で、草の根の伝道を続けて来られた佐々木正明師です。
 

  (これまでの記事は、記事に日付をさかのぼってお読みくださいますようお願い申し上げます)


Ⅲ. 神の国での成長

 神の国に入って間もなくの体験は、たいてい、突発的(とっぱつてき)で瞬間的(しゅんかんてき)な出来事が多いようです。賭(か)け事に狂っては酔いつぶれていた人間が、突然、手のひらを返すように、賭け事を止め酒を飲まなくなるなどというのは、はた目にも良くわかりますが、他にも、目立たなくても、ずいぶん似たようなケースがあります。それはじつに感動的で、神の力によるとしか言いようがありません。でも、賭け事はぱったり止まったが、短気はおさまらないなどということもあります。多情(たじょう)は失(う)せたが、陰口、悪口、うわさ話しが直らないという女性も少なくありません。神の国の体験は、瞬間的な体験であると同時に、継続的な体験です。悪魔の子であった人間が(ヨハネ8:44)、ある日、神の子としていただいたとしても、すぐさま、神の子らしい神の子になるのではありません。少しずつ、名実(めいじつ)ともに神の子と呼ばれるにふさわしくなるように、成長して行くのです。


Ⅲ.A. 人間の良い性質の回復

 人間は、もともと神の性質に似せて造られたのであり、美しく善い性質を持っていました。ところが、悪魔の誘惑(ゆうわく)に負けて神に従わないという罪を犯した時から、神の御許(みもと)から追放され、悪魔の支配の中に入れられてしまったのです。そのため、善い性質が抑圧(よくあつ)されてどんどん弱まり、ほとんど無力になってしまっただけでなく、たとえわずかに残った善い性質が力をふりしぼって活動しようとしても、悪魔の力によってねじ曲げられて、聖(きよ)い神の前には良いことではなくなってしまうのです(ヨハネ15:4-5)

 ところが、神の国に入って神との交わりを体験すると、神の聖(きよ)い力が人間の中に強烈な影響を及ぼします。まず、それまで自由に振舞(ふるま)っていた悪い性質が抑制され、抑圧されていた善い性質が解放されるのです。多くの場合、解放されてもすぐに力を発揮(はっき)するのではなく、ちょうどしびれていた足が、少しずつ感覚を取り戻し、指先を動かすごとに力を付けるように、人間の努力とあいまって、徐々に回復して来るのです。大切なことは、人間がすべてを神まかせにして、するべき努力をおこたっていては、解放された善い性質もその力を回復しないままに終わってしまうという事実です。ここでも、人間の意思が重んじられています。人間が努力をすると、神は神の力をもって、さらに助けてくださるのです。それは難業(なんぎょう)苦行(くぎょう)の努力ではなく、意思の証明、 意思の表現としての小さな努力です。それが、ひとつの勝利を得させ、次の勝利の励ましになるのです。



Ⅲ.B. 価値観の変化

  悪魔に支配されているこの世界に生きる人間は、悪魔的な価値観を持っています。何もかもが、みにくい悪だというのではありません。表面的には美しく、善良に見える人生観も、世界観も、大きなところで、基本的に歪(ゆが)められているということです。


  たとえば他人のため、社会のために尽(つ)くすのは良い事です。けれども、他人のため、社会のために善意で行われたことが、どれほど多くの人々を苦しめ、死に追いやってきたことでしょう。良心に従ってマルクス・レーニン主義に身を投(とう)じた人の数は膨大(ぼうだい)です。多くの人は善意によって動きました。ですが、この主義は億(おく)単位の人々を殺し、さらに多くの人々を不幸に追いやったのです。

  この点においては、キリスト教もきびしい裁(さば)きの対象になります。クリスチャンは、一般的に善意の人々です。ところが、キリスト教の2000年の歴史のほとんどは、まじめな信仰を持たない、つまり、神の国を体験していない支配者たちによって、治(おさ)められて来ました。彼らは金と権力のために欲望の限りを尽くして、本当の教会を破壊(はかい)し続けたのです。悪魔さえ気おくれがして、しり込みするようなことが、いくどもくり返されました。そのような中では、神の教えが記された聖書は、もっとも害のある危険な書物でした。ですから皮肉なことに、聖書は何世紀もの間、教会によって読むことが禁止され、狩(か)り集められては焼き尽くされていたのです。〈これを焚書(ふんしょ)と言います〉。

  人間は、自分の都合に合わせ、いろいろな哲学を考え出し、さまざまな思想を生み出し、多くの政治機構を作り上げました。キリストの名前や教えを用いて、悪事に精を出した人々も少なくありません。大航海時代から第二次世界大戦の後まで、世界中の人々はキリスト教国と言われる国々の、支配と搾取と殺戮に苦しめられました。ただいつの時代にも、神は本物の信仰を持った少数の人々、真実に神の国を体験した、わずかな人たちを置いてくださいました。その人たちが、社会の完全な腐敗をくい止める、地の塩の働き、完全な闇(やみ)を来たらせない、世の光りの働きをして来たのです。(マタイ5:13-16)


  時速300kmを越すレーシング・カーも、団地の奥さんたちの買い物の役に立たないではありません。ごみ収集車を飾り付け、新婚夫婦のハネムーンに使うことも、法律違反ではないと思いますが、それでは車がかわいそうです。それぞれの車には造られた目的があります。人間は神によって造られました。神の目的のために、目的に沿って、目的に合うように造られたのです。もしも人間が、造られた目的に沿わない生き方をしているならば、その人の人生が幸せであるはずがありません。しばらくの間は、順調で幸福そうに見えるかも知れませんが、かならずどこかに歪(ゆが)みができ、やがて破綻(はたん)をきたしてしまいます。

  人間は神の栄光のため、神の栄光を現すために造られたのです。それが聖書の教えです。しかし、神の国を知らない人に、そんなことが理解できるわけがありません。神との交わりの素晴らしさと、神の力を体験した人でも、長いあいだ自己本位な生活を送って来たあとで、すぐにこれを理解するのは無理な相談です。ところが神の国の中で成長を重ねるうちに、神の目的に合った生活をすること、人間が造られた目的に合った生き方をすることが、どんなにすばらしいかがわかって来ます。間違ってゴミ収集車にされていたレーシング・カーが、競技場に戻され、颯爽(さっそう)と本来の能力を発揮(はっき)するようなものです。

  自分の幸せのため、自分の安心のため、自分の家庭のためなどという、自分中心でわがままな初歩の信仰生活から、大人の信仰生活に育っていくのです。そのような生活においては、あれをしてはいけない、これをしてはならないという戒律(かいりつ)は、あまり意味を持たなくなってしまいます。神の命に生かされて、力いっぱい生きる喜びに満たされるからです。(Iコリント6:20、エペソ1:6、12)




※※※ まとめ ※※※  神の国に入ったらそれでおしまいと言うのではありません。神の国で、人間は信仰の成長を果たすのです。神の力によって解き放たれた人間の善(ぜん)を行う能力は、人間の意志と努力と、神の助けによって力を取りもどします。それだけではなく、成長のうちに理解が増し、人間に対する神の目的を悟(さと)り、その目的に合った生き方をする喜びを知るようになるのです。