ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

箴言 陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす(箴言17章22節~28節)

2020年03月28日 | 聖書
 陽気な心は健康を良くし、
 陰気な心は骨を枯らす。(箴言17章22節~28節)


 これ、全くこの通りですね。NHKの「今日の健康」の標語にしてもらいたいくらいです。

 聖書の神様は因果応報や現生利益(ご利益)の神ではありませんから、聖書のなかには、世俗的な価値観からは、理解に苦しむ様な物語もあります。
 モーセ五書に見るモーセの死一つをとっても、なんだか得心できないと思わせられるわけです。
 せっかく、四十年もイスラエルの民を率いて荒野をさまよい、ヨルダン川の手前まで来て、あと一歩でカナンに入れる、その時になって、神は、モーセにカナンに入れない、ひとりでネボ山に登って死ぬようにお命じになるのです。つまり、「最後のおいしい成果」は後継者のヨシュアに譲りなさいと言われているのです。モーセは神のご命令どうり一人山の中に入って死に、その結果、墓もどこにあるのかわからない、となるのです。

 小さな功績でもたたえてもらいたい、メダルや褒賞をもらいたい。死んだときには盛大な葬儀で送られ、りっぱな墓を残し、出来ればモニュメントの一つも建ててもらいたいと、願う人は多いのです。

 もちろん、キリスト者にとっては、この世の墓やメダルは問題ではありませんと、言いたいところです。モーセの最後はすばらしいのです。(もちろん、神様に大きく用いられた彼の全生涯が!)

 対して、箴言は、もう少しわかりやすいのです。神の価値に則って生きることが、同時に、人間的な価値にもつながるように書かれています。

 ★ ★ ★

 悪者は人のふところからわいろを受け、
 さばきの道を曲げる。(23節)

 またしても、賄賂です。よほど賄賂が横行していたのでしょうか。上司やお世話になった方への贈り物そのものは、今日でもあることです。それで、さばきが曲げられるとしたら、その上司は「悪者」なのです。

 悟りのある者はその顔を知恵に向け、
 愚かな者は目を地の果てに注ぐ。(24節)

 愚かな子はその父の憂い、
 これを産んだ母の痛みである。(25節)

 正しい人に罰金を科し、
 高貴な人をその正しさのゆえにむち打つのは、
 どちらもよくない。(26節)

 正しい人=悟りのある者=高貴な人、愚かな者=愚かな子と、またしても対比が続きます。正しさを打つのは、ただの愚か者より、もっと悪いのですね。

 しかし、神様ご自身が「正しい人はいない」と仰せのように、つい、愚か者になってしまう弱い人間は、どうしたらいいのでしょう。
 それが次の答えです。

 自分のことばを控える者は知識に富む者。
 心の冷静な人は英知のある者。(27節)

 愚か者でも、
 黙っていれば、知恵のある者と思われ、
 そのくちびるを閉じていれば、
 悟りのある者と思われる。(28節)

 「はい。仰せのとおりです。」と思わず頭を垂れてしまいます。



 もう一つのseesaaブログの連載投稿「聖書通読エッセイ・箴言」から転載しました。









人の心は・・ 2016年02月24日の聖書通読エッセイより

2020年03月07日 | 聖書

        人の心は病苦をも忍ぶ。
        しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。(箴言18章14節)

 ほんとうに、深くうなずいてしまいます。
 たくさんの方々が、病院で深刻な病と闘っています。人間は不治の病であっても、なんとか、治療して元気になりたいと願うのです。
 生きようと思うかぎり、大きな傷痕の残る手術も、副作用の強い抗がん剤や、つらいリハビリにも、立ち向かえます。
 しかし、心がひしがれた瞬間、人間は耐えきれなくて、折れてしまうのではないでしょうか。


           ★★


 だからといって、「打ちひしがれた人」に「元気を出しなさい」と励ますのはどうでしょうか。
 「心を前向きにシフトして」「いつもポジティヴに」なんて、言ってもらっても、どうしようもないと叫ぶ声もあるでしょう。
 箴言がこの言葉を載せているのは、心のひしがれた人を励ますためでも、そこから脱出する方法を、てっとり早く教えるためではなく、シンプルに、だれでも、
 人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか、となり得ると、宣告しているだけだと思います。
 人間はつい、はっきりした治療法を欲しいと思うのですが、
 聖書は、容赦なく、問題を問題として投げかけています。
 たとえば、次のことばはどうでしょう。

 貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。
 彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおさらのこと。(箴言19章7節) 


           ★★


 赤裸な人間の心を、ポンと提示されて、
 「これはひどい! 少なくとも私は違う!」とは、
 だれも言い切れませんね。
 自分にも思い当たる弱さや闇。明らかに神の基準ではない「尺度」があって、それでこそ利巧で、かしこいと、思いたいのです。

 ちなみに、箴言の前置きは次のようになっています。
  イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。

        これは、知恵と訓戒とを学び、
        悟りのことばを理解するためであり、
        正義と公義と公正と、
        思慮ある訓戒を体得するためであり、
        わきまえのない者に分別を与え、
        若い者に知識と思慮を得させるためである。
        知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、
        悟りのある者は指導を得る。      (箴言1章1節~5節)



🌸箴言は、聖書の20番めに置かれた書物です。聖書の中では「知恵文学」に分類されています。
 ソロモンは、ダビデ王の子、古代イスラエル王国最盛期の王。
 いつも周辺国から侵略されていた弱小国イスラエルは、ダビデ、ソロモンの時代(BC1011年頃~BC930年)に最大の領土と栄華を誇りました。知恵と英知により政治。商業、貿易、軍事面すべてにおいて順風満帆に運んだ時代、その中心地であるエルサレムの宮殿には、多くの国々から朝貢があったことが聖書に記されています。
 ソロモンの秘宝伝説やシェバの女王伝説として、映画にもなっているので、話題満載の人物ですが、
 さとうは、日本人としては、藤原道長のイメージが(その隆盛と幸運において)、ソロモンと重なるような気がします。