ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

ほぼ回復

2018年02月28日 | 日記
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     人の体と心は、ほんとに不思議です。
     突然、首がほぼ左右に180度動くし、手もほぼ真上に上がるようになりました。

     私があわてて、お医者様に行かないのは、このような経験をなんどもしているからですね。

     健康番組などを見ていると、いろんな症状と重篤な病気の可能性が紹介され、
     心配をふやすのですが、もう、そんな時期も過ぎたのでしょう。

     誰でも弱い箇所があり、全身のすべてが完全に「健康」なんて幻想だと、
     70年も生きてきたら、わかります。

     私の若いころですが、亀井勝一郎という評論家が人気でした。
     当時の世相を反映して、ちょっと左翼寄りで、良心的な論を張る方でした。

     あるとき、彼がどこかで、
     「エゴイストとは、自分の心と体の心配ばかりしている人だ」と書いていたのです。

     彼の真意は、社会の矛盾や、社会変革など、外の問題に目を向けないで
     自分のことばかり心配しているのは、エゴイストである、ということだったのでしょう。
     それで、自分は、時折、社会問題にも目を向けているから、エゴイストでないと
     思ったような気がします。
     
     彼が、今生きていたら、なんというのでしょう。
     社会問題は、それなりに目が向けられていますが、
     人間が自分の心と体を心配する、その影響を受けるという、人間の宿命はいっこうに変わらない。

     ある日、具合が悪くなり、また、ふと、平常に戻る。
     このような気まぐれな人間が、平静でいるためには、

     神がおられるという事実を認めることが、
     いのちにとって、一番確かだったと、気が付くこの頃です。

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回復途上

2018年02月27日 | 日記



    先週木曜日から始まった首の異常。
    一時は、首が全く回らず、手も上がらなくなり、
    首筋、肩、背中が痛くなり、
    さすがに、のんき者のさとうも、参りました。

    お医者様に行けばいいのですが、熱っぽくておっくう。
    日曜日も少しだけ教会に行き、
    でも、昼食に誘ってくださる姉妹がいて、
    おしゃべりし、
    なんと3時間も一つのお店でねばってしまいました。

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    いつの間にか、首が回り始めました。

    目下のところ、右に20度、左に30度くらい回ります。
    手は、肩の高さでまっすぐ前方に伸ばせるようになりました。

    神さまに、感謝です。
    祈ってくださった方々に感謝です。

    いつかは、徐々に身体が不自由になってくるのかもしれませんが、
    ともかく、こうして、パソコンが打てること、人とメールのやり取りができること、
    SNSに書き込めることも、感謝です。

    もうじき三月です。
    目の前の駐車場にある
    桜の風情が変わってきました。おびただしいつぼみが膨らんできたのか、なんだか、騒がしいのです。
    まもなく、三月です。

    ♪は~るがきた~♪♪

    、

    
    

    
     

    
    

首が回らない

2018年02月23日 | 日記



      昨日の朝、友人と電話で話して受話器を置いたとき、首すじが痛いのに気が付きました。
      電話をとるとき、ちょっとひねったのかもしれないと思い、
      午後は、歯科にも行かなければならないので入浴し、

      熱い湯を首筋にかけて、その時は気分が良くなりました。

      夕方、もう片方の首筋も痛くて、首が全く回らないのに気が付きました。
      そういえば、歯科の診察台で腹筋運動よろしく起き上がることができなかった・・・。

      そのうち痛みは肩から背中へと下ってきて、ちょっと寒気もする。
      マフラーで首を巻き、ガスストーブとエアコンを、同時にかけ、

      椅子に腰を沈めて、テレビを見るのがやっととなりました。


              何故か冷たいブドウが食べたい!

      
      今朝、それでも無事に目が覚めました。
      相変わらず首が回らない。
      「誰にも借金していませんよ。」とへたな冗談を言ってみたけれど、意気が上がらない。

      お祈りをし、
      やっとの思いで、日課の聖書通読エッセイをもう一つのブログに投稿。
      ほんとうに、やっと、やっとでした。

      経験上、インフルエンザかもしれないと思うけれど、お医者様に行くのもおっくうで、
      テレビでオリンピック中継、女子のフィギヤの中継を見て、なんとなく午後を過ごしてしまった。

      楽をしたけれど、まだ首は回らない。明日は土曜日、
      あさっては日曜日、
      どちらも出かける予定がある。
      
      さて、首は回るようになるのでしょうか。
      それとも、正真正銘のインフルエンザになるのでしょうか。

      神さま!!

      

      


      

同じ主(神様)にある姉妹のつどい

2018年02月22日 | 聖書

                                   

    ある姉妹のお宅で、三人で昼食のときをもちました。
    「パンを焼いておくので、どうぞ」
    とのことで、Nさんと一緒に招いてくださいました。

    柔らかく、まだぬくもりが残っているパンでした。
    実だくさんのスープも、コーンサラダもマイルドな味でおいしかったです。

    私も一応サラダをお持ちしましたが、
    小心者ですね。皆さんの口にあったかしらと気になってきょろきょろ。
    さとうのサラダは、小肌とアボガドと新玉ねぎ、干しブドウの和え物風。

    前々から、いつか公にしたい!一品でしたが、さて。です。
    食べることは幸せです。おしゃべりも幸せです。

    Nさんの食前の祈りがまたすてきでした。

    ・・・・・

    二人でも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいます。
                              (マタイの福音書18章20節)

    ・・・・・
                             アーメン

    これはイエス・キリストの言葉で、たしかに、間違いなく、そこには、イエスがおられたのです。
    なんと言っても、主が共にいて下さったことが一番、幸いでした。



                      



    

自分だけの郵便受け

2018年02月14日 | 聖書


 九十三歳のFさんは、娘さん夫婦の家の隣に住んでいます。二つの家はひさしを接するほどですから、文字通り「スープの冷めない距離」です。
 Fさんは、かつては食堂を経営し、四人のお子さんを立派に育てたしっかり者でした。年老いて、遠い故郷から娘さん夫婦のとなりに引っ越してきたのです。初めのうちは活発に外出して、家事もマメにやっていました。しかし、最近数年はちょっと認知症の症状が現れ、家にいて、ディサービスなどに行くのが楽しみの生活になっています。

 Fさんが、自分で出来ることはだんだん少なくなってきました。時々は、思いついてガスに鍋をかけるのですが、何をするつもりだったのか忘れて、鍋を焦がしてしまいます。風呂も沸かしたまま忘れるし、下着一枚のために洗濯機をまわし、一日に五回も六回も洗濯することがあります。食事は娘夫婦のところで食べることもあり、自分のペースで食べるたいときもあるのですが、どちらにしても、もう娘夫婦が食事の世話をしているのです。
 さいわい、ひとりで家の外を放浪することはなく、自分の身支度もぜんぶ自分でできるのです。


★★


 Fさんの日課は、一日に何十回も郵便受けを見に行くことです。Fさんの住まいも独立した家屋ですから、小さな門があり、郵便受が付いているのです。

 郵便受けには、めったに何も入っていないのです。郵便物が来なくなって久しいのです。、チラシやダイレクトメールもほとんど投函されることはありません。門は植木が塞いでいて、チラシを配る人も、廃屋だと思うのかもしれません。
 雨が降っても、風が強くても、寒い冬でも、Fさんは郵便受けを開けに行きます。


★★


 私は、Fさんが「期待する人」であることに、心打たれました。たしかに、彼女は認知症かも知れないけれど、なにかを「期待している」のです。
 Fさんの庭には、ノラ猫もやってきます。娘さんが決まった時間に食べ物を置いてあげるからです。猫は食べ物を期待してやってくるのです。
 
 Fさんは、何も入っていない空のポストに「期待している」のです。毎日、十分ごちそうで養われ、娘夫婦の愛情に支えられ、何不自由のない老後生活で、それでも、Fさんは、「良い知らせ」があるかもしれないと期待しているかのようです。

 話を聞いて、何人かの人がFさんに、郵便を出すことにしました。
 宛先に自分の名前が書いている郵便物を受け取って、Fさんの喜びようは大変なものだったのです。
 娘さんに、「この人はだれ?」と何度も聞き、日に何度も手紙を取り出しては、封筒がボロボロになるほど見返しています。


 ★★


 人間だけが郵便受けを持っていて、郵便受けに期待するんだ。と気がつき、私はFさんの行動にとても感動しました。

 どんなに大勢の人に囲まれていても、どんなに満たされていても、なお、期待する自分だけのポスト――それは、きっと、生まれてくる時、神様が持たせてくださったのではないでしょうか。



             さとうまさこ・聖書通読エッセイCoffee Breakより転載しました、