「ノアの小窓から」とは別に、SeeSaaブログで、聖書通読エッセイを書いてきました。
2010年8月から始めました。原則、毎日書くと決めきつい日も多かったのですが、書いてきました。
今年3月で、旧約聖書の通読エッセイを終えました。
いまは、新約聖書マルコの福音書の5章をたどっています。
記事の数が、現在2900を超えています。時折読み返し、誤植や言葉の訂正,大き な勘違いがないか調べています。
箴言は、旧約聖書の20番目に置かれた書物です。一種のことわざ集ですが、聖書の中では、詩編などとともに「諸書」に分類されています。
これもまた、神さまの目を思い起こして読むことで、意味深くなっていると教えられます。
とはいえ、私の文章はあくまで、エッセイです、自分の身に引き寄せて考え、書いています。
再録させていただきましたので、お読みいただければ感謝です。
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2016年03月18日
Coffee Break箴言・85 捕えられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。(箴言24章10節~12節)
楽屋をお見せするようですが申し訳ないのですが、のっけから言い訳です。一度、ワードで記事を書いてコピーし、ブログに出すのです。ところが、ついさっき、何を間違ったのか、コピーしたつもりが書いた記事が全部消えてしまいました。そのあと処理も間違ったらしくて、いっさい残っていません。
気落ちしましたが、書きなおすことにします。
もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、
あなたの力は弱い。(箴言24章10節)
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捕えられて殺されようとする者を救い出し、
虐殺されようとする貧困者を助け出せ。(11節)
かつて、少しだけ「死刑廃止運動」に関わっていたことがあります。これは、じつは非常に難しい社会運動なのです。なぜなら、日本では、今でも死刑廃止に反対する世論の方が多いのです。個人的にも、何の関係もない善良な市民に対する非道な殺人事件などを見ると、とうぜん加害者を憎む気持ちはもつのです。
社会運動としては、例えば、「災害の被害者を助けよう」という世論に反対する人はいません。障害者や高齢者、さまざまな病気を持っている人、ひとり親家庭や親のない子供たちも、助けられるべきです。福祉は、充実する方が良いに決まっています。
ところが、死刑になる人を助けようという意見には、かなり強い拒絶反応を示す人は多いのです。
それゆえ、私たちはデモ行進をする前に、「完全に秩序ある行進をすること」「たとえ、道行く人からからかわれたり、挑発的行為を受けたりしても応じないこと」などを、確認しなければなりませんでした。
そこには、弁護士や人権活動家の人たち、宗教家、国会議員などもいたので、実際には、私のような一介の市民が、誰かと論争になるようなことはありえませんでした。
それに、「何故死刑がいけないのか」といった問は、とてもシリアスな議論が必要で、大声を上げて論争するにそぐわない問題です。
たとえば、「殺人を否定する国家が、人を殺しても良いのか」と言う意見。
「死刑廃止は世界の趨勢である。死刑を廃止または停止している国は、死刑存置国より圧倒的に多い」
ウィキピデア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E6%AD%BB%E5%88%91%E5%88%B6%E5%BA%A6%E3%81%AE%E7%8F%BE%E7%8A%B6
アムネスティインターナショナル
http://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/statistics.html
たとえば、「神さまがお造りになったかけがえのない人間を『更生の見込みなし』などというのは、おかしい」
また、どんな人間の行為も「酌量の余地がない」などとは言えない。
たとえば、「冤罪の可能性」。これについては、「たとえ、九十九人の真犯人を逃しても、一人の冤罪者を出してはいけない」と、冤罪問題を扱っているルポライターは言うのです。
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人間は、だれでも「良いことをしたい」気持があると思います。ですが、出来るなら、良いことのために「災難や苦難」にあったり、犠牲を払ったりしたくないとも思います。
ですから、ブームのように人が集まる社会運動がたくさんあります。
同時に、日の当たらないところで苦しんでいる人、見捨てられている人も、たくさんいるのでしょう。
私自身、人のためになにかの活動をしているとは言えません。せめて、神様の声を聞きたいと思って、毎日聖書を読んでいますが、それも、どうでしょう。
助けがそこに来ているのに沈んでしまう人も悲惨ですが、助けを呼び求めているのに、知らぬ顔をして人が通り過ぎる、そんな目に遭っている人がいるかもしれません。自分はちょっと心を配れば助けられる人を、黙殺しているかもしれないのです。
神様に次のように言われているのはたぶん、私自身でもあるのでしょう。
もしあなたが、
「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、
人の心を評価する方は、
それを見抜いておられないだろうか。
あなたのたましいを見守る方は、
それを知らないだろうか。
この方は
おのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。(12節)
ただ、悔い改めるしかありません。