ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

大宴会場

2019年03月16日 | 立ち止まって考えること



 かつて、あるジャーナリストが、メディアは置屋、
 そこで、声がかかるのを「お座敷がかかると言うのだ」と言っていました。
 「お座敷が多いほど売れっ子ゲイシャで,花代も多くてね。」
 その時代のジャーナリストやタレントさんは、あらかた存在しなくなりましたが、
 
 お座敷でもっとも良い場所は、大宴会場であるのは、変わらないようです。








 



松山福音センター・万代栄嗣師の投稿から

2019年03月07日 | 聖書


 
  

  記事の内容です。

●作家の五木寛之氏が、ある週刊誌のコラムに書いておられたのですが…。平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて、“今様(いまよう)”という大衆歌謡が大流行していたのだとか。そのいくつかを紹介しておられる中に、次のようなものが。
“はかなきこの世を過ぐすとて 海山稼ぐとせしほどに 万の仏に疎まれて 後生我身をいかにせん”。📖
●あてのないこの世を何とか生き抜くためにと、怖いもの知らずに殺生や盗み、嘘、偽りなどありとあらゆるものに手を染めて来たものの、とうとう周囲のあらゆる神仏にも見放されて、地獄に真っ逆さま間違いなしのこの命、一体、これからどうすれば良いのか…といった意味でしょう。😔

●注目したいのは、この今様に込められた当時の庶民の心情に、罪責観や良心の呵責といった感覚が、心の底辺にあったのだろうということ。無学な庶民であっても、また、生き抜くためには残虐な場面を通り抜けなくてはならないような過酷さがあっても、善悪や罪意識がしっかりと心に植え付けられていた…ということ。当時の人々は、本当に地獄には堕ちたくなかったのです。それが、この後、救済を求める人々への鎌倉新仏教の隆盛に繋がって行きます。⁉️

ポストモダンの多様性への異様なこだわりが、何をしても、どういう生き方をしようと、それが権利だ、自由だ、尊重すべきものだ…と際限なく拡大されつつあります。明らかに、罪意識が薄弱になり、今までは悔い改めるべき罪とされていたものが、むしろ、尊重され拍手喝采を受けるべき特殊な個性とされつつあります。誰もが、自分は正義だと主張しています。同時に、悪・罪・罰の対局として描かれているキリストの愛・福音が、どんどん薄っぺらくなり、何をやっても理解され、受け入れてもらえる過保護な親の愛のようなものにすり替えられ、安易に受け取られつつあります。✝️

キリストの福音によるリバイバルを、心から求めています。しかし、説教者である身としては…適切な罪意識さえ持てなくなった現代人の心に、どうすればキリストの愛が響くのか、大いに考えさせられています。
🙁