ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

いただきもの

2015年08月28日 | Goods





         いただきものがありました。







         老舗「しだら」から届いた特装品です。

         さて、何でしょう。


           




         詰まっているのは、「愛」です。

         感謝!!!







 
        

聖書に見る――美貌3

2015年08月27日 | 聖書






       あるとき、サウルの父キシュの雌ろばがいなくなった。 
       そこでキシュ派、息子サウルに言った。「若い者をひとり連れて、雌ろばを捜しに行ってくれ。」
                               (Ⅰサムエル記9章3節)


       そこでサウルは、使用人の若者とエフライム(彼らの居住地)の山地を雌ろばを捜しに出るのです。
       あちこち歩き回っても見つからないので、サウルは若者に言うのです。

       「もう、帰ろう。父が心配するといけないから」
       すると、使用人の若者が言います。
       「この町には神の人(預言者サムエル)がいます。」
       サムエルは、その預言に力があり、すでに、さばき人としても
       指導者としても、広くイスラエルにその名が知られている人でした。
       若者はサムエルに会って、どうすべきか神の声を聴いてもらおうと提案したのです。

       二人が神の人のいる町に入って行こうとしたとき、ちょうど
       神に祈りをささげるために礼拝所に向かっているサムエルと行き会ったのです。

       そのとき、神が預言者サムエルに語りかけたのです。
       「この者がわたしの民を支配するのだ」(Ⅰサムエル記9章17節)


       サウルが、初代のイスラエル王に選ばれた決定的瞬間でした。


                ★ ★ ★  


       じつは、古代イスラエルには、当時、王はいませんでした。

       イスラエルの建国と言えば、シナイ山でモーセが神から十戒をいただいて、神と契約を交わしたとき、
       神聖政治国家イスラエルが誕生したのです。

       普通、国と言えば、領土と国民と国家体制(法制)で成るものでしょうか。しかし、
       この時のイスラエルは、法律と国民は存在しましたが、領土がなかったのです。
       領土は、いずれ入植することになるカナンでした。


       荒野の40年と言われる期間のあと、
       神聖政治国家イスラエルは、なんとか、カナンに入ることができました。
       しかし、聖書に見る限り、
       それは強力な統一国家ではなくて、
       シナイ契約を下さった同じ神をいただく「アブラハムの子孫たち」のゆるやかな連合体でした。

       もともと入植した時点で、異邦人がまだたくさん残っていたうえ、
       西にエジプト、地中海、北にシリヤ、
       東にメソポタミヤに囲まれたイスラエルの地は、人の往来も激しく、しょっちゅう
       外敵の脅威にさらされていました。

       外敵に攻められたときの対抗方法は、勇敢な指導者(士師や預言者)をたのみにするのですが、
       いわゆる武力の専門家や専門組織がないので、いつも苦戦していました。

       サムエルは、卓越した預言者で指導者でしたから、その時代は敵を抑えることができましたが、
       高齢になったサムエルに対して、民は、とうとう申し入れるのです。

       「私たちにも、ほかの国と同じように、民の先頭に立って戦ってくれる王を下さい」(Ⅰサムエル記8章7節)
       これは、サムエルの気に入りませんでした。イスラエルは建国以来神政政治国家だったのです。
       神に代えて人間の王を立てるなど、あり得ないと、サムエルには思えたのです。
       ところが、お伺いを立てると、意外にも、神は、
       「民の声を聞き入れなさい」と仰せなのです。

       そのようないきさつから、サムエルは、サウルを王として選ぶことになったのです。


                   


       それにしても、どうして、
       神は、
       イスラエルで一番の美青年、だれよりも肩の上の分
       長身だったサウルを、お選びになったのでしょう。

       それは、神様の「お好み」だったのでしょうか。
       それは、断然、そうではないと言えます。

       それは、多分に、人がうわべを見る性質があるためです。

       建国以来初めての王制、まだ、未知の体制のためにサウルは選ばれました。
       とうぜん、民が従うかどうかは、大きな課題です。
       ある意味、王はカリスマでなければなりません。

       美貌は、
       国家に、初めて登場する王として欠かせないと、神もお考えになったのではないでしょうか。
       しかし、神は心をもご覧になるのです。
       サウルの心はどうだったでしょう。

       じつはサウルはとても「良い人」でした。
       素直で、優しくて、シャイで・・・・。

       しかし、それが、王としての彼をつまづかせるのです。




       

       

聖書に見る、美貌2

2015年08月26日 | 聖書



     いったい人に美醜があるといった認識はいつごろから起こったものでしょうか。

     はたしてほかの動物でも、
     同類に対する美醜の概念があって、それで相手の値打ちや好悪を決めるのでしょうか。

     たしかに、猫や犬を見て、「かわいい」「かわいくない」と言いますが、それは人間の判断です。

     猿山のボスは、美ザルを周囲に集めているかどうかは、サルに聞けないのでわかりません。
     クジャクは羽の美しさを競うといいますが、美しいオスかどうかを決めるのはオス同士のようです。
     カラスはどれも真っ黒ですが、彼らも「美カラスコンテスト」があるのでしょうか。


     こんなことを思うのは、人間だけが、あまりにも美醜に囚われていると思われるからです。
     「たかが外見」と、バカにはできないと、誰もが思い込まされているのです。

     始皇帝が滅びたのは、傾城・楊貴妃のためであり、クレオパトラが歴史に名前を残したのは、
    「鼻が高かったため」であると、みんな楽しく、話題にします。

     化粧は日々進歩していますし、整形手術なども、一部の人のものではなさそうです。

     むりもありません。

     「人はうわべを見る(が、『主しゅ=神』は、心を見る)」のです。(Ⅰサムエル記16章7節)

 

           ★   

     
      じつは、ダビデはイスラエル王国二代目の王でした。ダビデの前にサウル王がいたのです。

      サウルもまた神によってサムエルを通して選ばれた者でした。
      彼は、間違いなく、「見栄えの良い美しい青年」でした。そのうえ、裕福な家の出身でした。

      聖書は、彼を次のように紹介しています。

      キシュ(サウルの父親)にはひとりの息子がいて、その名をサウルと言った。彼は美しい若い男で、
      イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。
                                   (Ⅰサムエル記9章2節)


       およそこれ以上の賞賛のことばはあるかと思えるほどです。彼は美貌であっただけでなく、
       「民のだれよりも」肩から上だけ背が高かったのです。
       これを見ると、長身は、どうやら古くから評価されていたようです。

       しかも、サムエルは、サウルの水際立った美貌に惹かれて、彼を王に任命したのではありません。
       サムエルは預言者です。預言者とは、今日考えられているような、先のことを予言する人ではなく、
       「神のことばを預かる人」のことでした。

       神からの指示やご命令を聞き取ることができ、神の御心に沿った世のあり方のかじ取りをするよう
       用いられた人だったのです。

       じっさいの世の中では、予言はもちろん、王の顧問、教師、また、在野の批評家、今でいうアナリストや
       アジテーターのようなことにも、用いられました。すべて、自分の考えで動くのではなく、
       神からの声を受けて(召命)、使命感を持って行うものでした。ときには、
       自分に不利益なことも言わなければならず、いのちの危険もありました。

       聖書では、実に多くの有名無名の預言者が登場します。
       
       そんなわけで、サウル王は、イスラエル初代の王として指名を受けました。
 
       神は、イスラエル初代の王の王冠を、
       イスラエルで一番ハンサムで背の高い青年にさずけられたのです。

       これは、いったいどのような意味があったと、考えるべきなのでしょうか。

          続きは、明日!!










聖書に見る――美貌1

2015年08月25日 | 聖書




      美貌という言葉は、少し古いでしょうか。

      ショウワの中でも本物のショウワ人の私でも、じっさいにはめったに使わないことばです。

      人間が人間の顔かたちや表面的な美しさを問題にするようになったのは、いつごろからでしょう。

      そもそも美貌って、なんでしょう。

      聖書にもあります。


          「人はうわべを見るが、主(しゅ=神)は心を見る」(Ⅰサムエル記16章7節)


      
      古代イスラエルの大預言者であったサムエルが、神のご命令で、イスラエルの王になる者を
      選び出すため、ベツレヘムのエッサイの家に行ったときの出来事です。

      エッサイには八人の息子たちがいました。
      エッサイはそのうち、上から七人を待機させて、サムエルを迎えました。

      サムエルの前を、長男のエリアブから順番に歩きます。
      エリアブは大変、美しい容貌の持ち主だったようで、
      サムエルは、「彼こそ本命だ」と思い、思わずエリアブに油を注ぎ(王に任命するしるし)そうになるのです。

      そのとき、神の声が彼を止めるのです。

      「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。
       人が見るように見ないからだ。
       人はうわべを見るが、主は心を見る。」
      


      
                ★ ★ ★ ★ 


       エッサイの息子たちは、今でいうイケメンぞろいだったようです。

       二番目の息子アビナタブ、三番目の息子シャマが進んだときも、
       サムエルは「主は、この者をえらんでおられない」と首をふっています。

       七人の息子たちすべてを見た後、サムエルは父親のエッサイに尋ねるのです。

       「子供たちはこれだけですか」
       「まだ、末の子が残っています。あれは今、ひつじの番をしています。」(同11節)

       ダビデが呼ばれて、初めて、主は仰せになるのです。

       「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」
        しかし、兄たちを押しのけて王に選ばれたダビデが、ブ男だったわけではありません。

        聖書は描写しています。

        その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。(同12節)
        エリアブとダビデの違いを、しいて解釈するなら、
        外見的には、エリアブのほうが背が高かったのでしょうか。

        目鼻立ちはエリアブのほうがよかったけれども、ダビデは健康的で力にあふれていたとも取れます。

        もちろん、決定的な違いは、神ご自身が言っておられるように、

        「外見ではなく心、の差」だったのでしょう。





                 ★ ◎  ○ ★


        

            旧約聖書・Ⅰサムエル記16章より

             Ⅰサムエル記は旧約聖書の9番目に置かれた書物で、歴史の書として分類されています。
            左のリンクをクリックして「さとうまさこの聖書エッセイ・Coffee Break歴史の書」も併せてお読みいただければ感謝です。


         

        

        

       

      

      




秋の気配

2015年08月24日 | 自然





          秋風に 通りを覗く さるすべり



            
          ふた月も 眺めつづけた さるすべり
                          たがいにそろそろ 秋風の吹く