ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

サムソンの敗北

2021年05月31日 | 聖書

 サムソンはとうとうデリラの誘惑に負けて、自分の怪力が決して剃られたことのない髪の毛にあることを明かしてしまいます。

 その結果、ペリシテ人に捕らえられてしまい、目をくりぬかれて牢に入れられます。しかし、無力になったサムソンにもう一度チャンスがやってきました。

 

Coffee Breakヨシュア記・士師記131 臼をひくサムソン(士師記16章16節~22節)


 こうして、毎日彼女が同じことを言って、しきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほどつらかった。(士師記16章16節)
 それで、ついにサムソンは。自分の心をみな彼女に明かして言った。「私の頭には、かみそりが当てられたことがない。私は母の胎内にいるときから。神へのナジル人であるからだ。もし私の髪の毛がそり落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなり、普通の人のようになろう。」(17節)

 とうとうサムソンは彼の力のみなもとがどこにあるか、デリラに明かしてしまいました。髪の毛を剃り落すことは、ナジル人であることをやめることです。神様との特別な関係を断ってしまうことです。デリラは、すぐにペリシテ人の領主たちに連絡し、ペリシテ人の領主たちは、今度は約束の銀をたずさえてやってきました。

 彼女は自分のひざの上でサムソンを眠らせ、一人の人を呼んで、彼の髪の毛七ふさをそり落とさせ、彼を苦しめ始めた。彼の力は彼を去っていた。(19節)
 彼女が、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます」と言ったとき、サムソンは眠りからさめて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と言った。彼は主が自分から去られたことを知らなかった。(20節)
 そこで、ペリシテ人は彼をつかまえて。その目をえぐり出し、彼をガザへ引き立てて行って、青銅の足かせをかけて、彼をつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。(21節)

 神の力が離れてしまったサムソンは、あっけなくペリシテ人に捕まってしまいました。目をくりぬかれ、青銅の足かせをつけられ、ペリシテ人の本拠・ガザに引き立てられ、そこで、臼を挽かされることになるのです。
 ここで、臼と書かれているのは、私たちが見る餅臼でもなければ、手で上ぶたをまわして米や麦を引いた小さな石臼でもありません。のちに水車を動力とすることになる、大がかりなロータリーカーンといわれるものです。臼の部分から引き棒が水平に伸びていて、それを人が押し歩きながら回す、または、ろばや牛に引かせるのです。
 このような粉ひき場は、屋根があり薄暗く、仕事は単調で、それでいて力仕事だったでしょう。ぐるぐる歩いて回っていればいいので、目をくりぬかれても出来たわけです。
 
 ペリシテ人は、サムソンを殺すこともできたのに、あえてこのような「刑罰」を与えたのです。これは、彼が見せしめであり、さらし者にされているのを意味します。腕力があり豪放だったスーパーマンを、このように臼の奴隷にすることで、笑いものにしたのです。それが、最大の報復になると知って、行っているのです。
 これは、単純に命を奪うより、よほど残酷な刑罰です。歴史的には、しかし、このような残酷な刑罰は、国を問わず、時代を問わず、いくらでも行われてきたのです。もちろん、「残酷な刑罰」は、今は国連条約で禁止されています。

★★★

 サムソンは、どのような思いで、黙々と臼をひいていたでしょう。「ほぞをかむ」「後悔する」「反省する」などと言う言葉では、とうてい届かない絶望と悔悟の中に突き落とされたに違いありません。豪放磊落、傍若無人にふるまっても、どのような無茶も押し通すことができる。自分の腕力を持って解決できるとの思い込みを、根底からひっくり返されたに違いありません。

 サムソンは、絶望のどん底で、ようやく、心底自分が生まれる前からのナジル人であったこと、それゆえ、神がただならぬ力を自分に与えておられたのだと気がつきました。神にお詫びし(悔い改め)、ナジル人としての誓願をし直し、祈ったのです。

 サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸びた。(22節)

 
 頭にかみそりを当ててはならないという神の戒めに違反したサムソンでしたが、神は、心から主(しゅ=神)に叫ぶサムソンを憐れんで下さいました。
 髪の毛が伸びてきたサムソンに、神からの力が戻って来たのです。



 


悪女デリラ

2021年05月29日 | 聖書

 十戒などと同じように、「サムソン」も1950年ごろ二度ハリウッドで映画化されています。物語のメリハリがはっきりしていて、なおかつ主人公サムソンのキャラが豪快で大衆受けするからでしょう。ポパイやスーパーマンのような力持ちの話は、洋の東西を問わず一定の需要がありますね。尋常ならざる力は、人々の憧れなんでしょうね。

 しかし、当時の欧米人は今より聖書を読んでいたでしょうし、サムソンの物語は人気があったと思われます。サムソンの力は、神から力を着せられるナジル人としての現われです。それは神のご命令通り、決して頭に剃刀を当てることのない頭髪からくるものでした。

 

Coffee Breakヨシュア記・士師記130 デリラの誘惑(士師記16章6節~16節)



 じつは、デリラがどういう女だったのかは、書かれていません。遊女か、いわゆるふつうの若い娘なのか、人妻なのか。どのような容姿で、どれほど美しかったか、男を夢中にさせる手練手管はどのようなものだったのか。ただ、その名前「デリラ」は、「浮気な、恋をもてあそぶ」の意味(新実用聖書注解・いのちのことば社)だそうです。

 「あなたの強い力はどこにあるの。教えて」と寝物語に訊ねられても、さすがのサムソンも、正直に応じたのではありません。

 サムソンは彼女に言った。「もし彼らが、まだ干されていない新しい七本の弦(つる)で私を縛るなら、私は弱くなり、並みの人のようになろう。」(士師記16章7節)
 そこで、ペリシテ人の領主たちは、干されていない七本の新しい弦を彼女のところに持ってきたので、彼女はそれでサムソンを縛り上げた。(8節)
 彼女は、奥の部屋に待ち伏せしている者をおいていた。そこで彼女は、「サムソン。ペリシテ人があなたをおそってきます」と言った。しかし、サムソンはちょうど麻くずの糸が火に触れて切れるように、弓の弦を断ち切った。こうして、彼の力の元は知られなかった。(9節)

 この弦(つる)は、弓の絃に使われた麻です。弓に使われるくらいですから、当時としては最強の糸でした。
 サムソンが戯言(ざれごと)を言ったのを知って、デリラは怒ります。

「まあ、あなたは私をだまして、うそをつきました。さあ、今度はどうしたらあなたを縛れるか、教えてください。」(10節)
 すると、サムソンは彼女に言った。「もし、彼らが仕事に使ったことのない新しい綱で、私をしっかり縛るなら、私は弱くなり、並みの人のようになろう。」(11節)
 そこで、デリラは新しい綱を取って、それで彼を縛り、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます」と言った。奥の部屋には待ち伏せしている者がいた。しかし、サムソンはその綱を糸のように腕から切り落とした。(12節)

 二度までうそをつかれたデリラは、もちろん、サムソンをなじります。なにしろ、大金が懸かっているのです。怒ったふりをして、誘惑を重ねるのです。それでも、サムソンは嘘をつきます。

「もしあなたが機(はた)の縦糸といっしょに私の髪の毛七ふさを織り込み、機のおさで突き刺しておけば、私は弱くなり、並みの人のようになろう。」(13節)

 機織り機は、いまでは古民具博物館にでも行かないと目にすることはありませんが、明治時代頃までの農家では、機織り機で布を織るのは女の仕事でした。外国でも布を織るのは女の仕事で、どこの家でも機織り機やそれに類した機具があったのでしょう。つい先ごろまで、女性がミシンや裁縫箱を必需品としていたのと同じです。デリラのような女でも、機織り機をもっていたのかもしれません。
 私は機織りの経験はありませんが、実演を見たことがあります。機織り機は、初めに縦糸を張って、そこへ横糸を差し込んでいきます。その時に横糸を詰めるのに使うのが「おさ」です。サムソンは彼の髪の毛七ふさを、縦糸を張った機の横糸として織り込んで、おさで止めておけばよいと伝えたのです。

 彼が深く眠っているとき、デリラは彼の髪の毛七ふさを取って、機の縦糸といっしょに織り込み、それを機のおさで突き刺し、彼に言った。「サムソン。ペリシテ人が彼を襲ってきます」すると、サムソンは眠りからさめて、機のおさと機の縦糸を引き抜いた。(14節)
 そこで、彼女はサムソンに言った。「あなたの心は私を離れているのに、どうして、あなたは『おまえを愛する』と言えるのでしょう。あなたはこれで三回も私をだまして、あなたの強い力がどこにあるのかを教えてくださいませんでした。」(15節)
 こうして、毎日彼女が同じことを言って、しきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほどつらかった。(16節)

 熱くなりやすいサムソン。女好きのサムソンにしては、三回もうそを言い通すのは、かなりの意志力でした。サムソンにしても、デリラの下心はわかっていたのでしょう。自分が神から聖別されたナジル人だという自覚もあった?
 けれども、その危険な場所から立ち上がって、帰ることができませんでした。
 彼は、デリラのところに居座っています。デリラにほれ込んでしまったのです。




 
 

サムソンとデリラ

2021年05月28日 | 聖書

 

いよいよサムソンの前に、あざとい女デリラが現れます。

サムソンの豪放さと怪力ぶりが、神のご計画だったことがわかる終局になります。

Coffee Break旧約聖書通読エッセイ  ヨシュア記、士師記129 サムソンとデリラ

 

 サムソンの物語は、聖書を「神のことば」だと教えられて読み始めた純真な読者を驚かせるかもしれません。私たちの良識ある(と思っている)常識に、突き刺さって来るからです。偶像礼拝の異邦人がイスラエルを圧迫して苦しめているからといって、神は、サムソンのような乱暴者を用いられなくてもよさそうなものを。いったいイスラエルには、道理を説いて、敵と知的に渡り合えるようなリーダーはいなかったのか。平和的交渉で国境を線引きし、平和共存のための協定を結べるような政治家は! わざわざ神が霊を送られるなら、凡庸な人間をも、「神のように」愛と知恵で満たして下さるべきではないのか。

 神がいるかいないかの論争になると、結局、このように神さまに「噛みつく」人が少なくありません。悪いのは、自分ではなくて、他人である、環境である、災害である、そのような悪を放置している神である。どこに神がいるのか、というわけです。
 私たちの常識に挑戦してくるのは、じつは、サムソンの物語が最初ではありません。旧約聖書の第一ページを読んだとき、すでに、だれもが感じることなのです。

 「神がエデンの園の中央に、食べてはいけない木の実のなる木をわざわざ植えていたのはひどい」というコメントを、どこかのサイトで読んだことがあります。これは、「ひっかけ問題」だというわけです。
カインのアベル殺しも、神様がカインとアベルのささげ物に平等に目を止めなかったからだ。大洪水でいっせいに地上の人間を滅ぼすなんて論外。さらに、ノアとその一家だけを救うなんて依怙贔屓(えこひいき)。どうして、天に届く塔を立てようと挑戦することが悪いのか。と、際限がありません。それでも、聖書にむしゃぶりついていくことができるでしょうか。相手は神様なのです。聖書が語りかけてくるメッセージは、勝ち負けのある論争ではないのです。

 ★★★★★

 サムソンは、イスラエルを二十年間治めた士師でした。必要な場所では、神の霊が下って人間わざとは思えない働きをするサムソンを、敵も恐れ、それゆえ、平和が保たれたのです。イスラエルの人々が、彼に従ったのは当然でした。
 しかし、力でねじ伏せる関係に、しょせん、真の信頼はありません。

 イエス様も、「剣を取る者は、みな剣で滅びます」(新約聖書マタイの福音書26章52節)と言われました。
 ペリシテ人は、サムソンがペリシテ人にしたことを忘れていませんでした。いつか仕返しをしてやろうと、機会を狙っていたのです。

 サムソンはガザへ行ったときそこでひとりの遊女を見つけ、彼女のところに入った。(士師記16章1節)
 このとき、「サムソンがここにやって来た」と、ガザの人々に告げる者があったので、彼らはサムソンを取り囲み、町の門で一晩中、彼を待ち伏せた。そして、「明け方まで待ち、彼を殺そう」と言いながら、一晩中、鳴りをひそめていた。(2節)
 しかし、サムソンは真夜中まで寝て、真夜中に起き上がり、町の門のとびらと、二本の門柱をつかんで、かんぬきごと引き抜き、それを肩にかついで、ヘブロンに面する山の頂へ運んで行った。(3節)

 この場面もまた、解説なしに笑えるところです。アニメ映画に向いているような場面です。
 門を門柱ごと引き抜いて肩に背負って山に登り、その頂上に捨てたのです。門の大きさがどれくらいであっても、すごい力です。ペリシテ人は、ただあっけにとられたことでしょう。
 そこで、危険を察知して、いち早く帰るのがふつうの人間ですが、サムソンは違いました。その夜は、ソレクの谷に行って、デリラという名の女と寝たのです。

 そのニュースを耳にしたペリシテ人の領主たちは、デリラに使いを送って言いました。「サムソンの強い力がどこにあるのか、サムソンを口説き落として、聞き出してくれないか」。
 どんな人間にもかならず、泣き所があるはずだから、それを知らせてくれ。それで、ペリシテ人たちがサムソンを縛り上げることができたら、デリラにお礼として銀千百枚を渡す、と言うのです。
 デリラは銀千百枚に心を動かされました。当時、イスラエルの祭祀儀礼に携わることになっていたエリート・レビ人の年収が銀十枚だった(新実用聖書注解・いのちのことば社)のですから、どれほどの高額だったか想像がつきます。
 
 デリラは、怪力の秘密を聞き出そうと、執拗にサムソンに迫ります。
「あなたの強い力はどこにあるのですか。どうか、私に教えてください。」

 ちなみにデリラとは、「浮気な、恋をもてあそぶ」の意味です。

 

 


サムソン――救国の英雄

2021年05月26日 | 聖書

 サムソンは聖書中もっとも人気のある人物の一人です。型破りで豪放なキャラで俗受けするのですが、実際は悲惨な物語を生きました。国が外国(ペリシテ人)に抑圧され、迷走している時代でしたから、神様は彼を生まれる前からサムソンを聖別され、用いられました。

 

 Coffee Breakヨシュア記・士師記128 救国の英雄(士師記15章7節~20節)


 自分の妻がほかの男の妻になっていたことに腹を立てたサムソンは、ジャッカルを使ってペリシテ人の土地の刈り取りを終え束ねておいた麦、まだ刈り取る前の麦畑、それにオリーブ畑に至るまでを、燃やしてしまいました。そのうえ、妻とその父の家に火をつけて殺したペリシテ人たちを「激しく打ち」復讐しました。さながら、竜巻の襲来のような乱暴な足跡を残していくサムソンに、ペリシテ人も激怒しました。手に手に武器を持って攻め上ってきたのです。
 驚いたのはユダの人々です。彼らの支配者であるペリシテ人と戦うことなど、最初からあきらめているので、彼らはペリシテ人に訊ねます。
 
「なぜ、あなたがたは、私たちを攻めに上って来たのか。」彼らは言った。「われわれはサムソンを縛って、彼がわれわれにしたように、彼にもしてやるために上ってきたのだ。」(士師記15章10節)

 ユダの人々は、騒ぎの張本人であるサムソンを捕えてペリシテ人に渡すことにしました。三千人もの人数で、サムソンが隠れているエタムの岩の裂け目にやってきます。
 
 彼らはサムソンに言った。「私たちはあなたを縛って、ペリシテ人の手に渡すために下ってきたのだ。」サムソンは彼らに言った。「あなたがたは私に撃ちかからないと誓いなさい。」(12節)
 すると、彼らはサムソンに言った。「決してしない。ただあなたをしっかり縛って、彼らの手に渡すだけだ。私たちは決してあなたを殺さない。」こうして、彼らは二本の新しい綱で彼を縛り、その岩から彼を引き上げた。(13節)

 サムソンは自ら進んで捕えられたのです。暴力沙汰になると、剛腕の自分が同胞を傷つけてしまうことを懸念したのです。(新実用聖書注解・いのちのことば社)
 
★★★★★

 捕えられたサムソンを見たペリシテ人は、叫び声をあげて彼に近づいてきました。なぶり殺しにしてやろうと言うわけでしょう。新しい綱二本でぐるぐる巻きにされているのですから、サムソンも絶体絶命です。

 その時、主の霊が激しく彼に下り、彼の腕にかかっていた綱は火のついた亜麻糸のようになって、そのなわめが手から溶け落ちた。(14節)のです。
 サムソンは、生新しいろばのあご骨を見つけ、手を差し伸べて、それを取り、それで千人を打ち殺した。(15節)

 アニメや歴史物の映画などでは、腕力のあるヒーローが一人で千人を倒すような荒唐無稽なスペクタル場面が、観客をわくわくさせます。この聖書箇所は、場面状況も視覚的で生々しく、まるでエンタテイメントのシナリオのようです。
 サムソンは、気を良くして歌います。

   「ろばのあご骨で、
   山と積み上げた。
   ろばのあご骨で、千人を打ち殺した。」(16節)

 ろばと山は、ヘブル語で同じオン(ハモール)なので、ここはごろ合わせになっているそうです。(新実用聖書注解) ごろ合わせの歌が出てくるほど、サムソンには余裕があったのです。
 ところが、敵はあとからあとから押し寄せます。サムソンはのどの渇きを覚え、さすがにエネルギーが切れそうになって、主に叫びました。

「あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えられました。しかし、今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。」(18節)
 すると、神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれ、そこから水が出た。サムソンは水を飲んで元気を回復して生き返った。それゆえ、その名は、エン・ハコレと呼ばれた。それは今日もレヒにある。(19節)
 こうして、サムソンはペリシテ人の時代に二十年間、イスラエルをさばいた。(20節)

 ろばのあご骨のような「武器」で、千人を倒すとは痛快です。同じような話が士師記3章31節にあります。エフデのあとに士師となったシャムガルが、牛の突き棒でペリシテ人を六百人を打ったと記されています。
 サムソンやシャムガルは、今日でいえば、超一流のフットボール選手、超一流のレスリング選手、最高段位の剣道選手を合わせたような、強力で俊敏な体力体格をもっていたのは間違いなさそうです。しかし、大きな戦いで、手近にあるろばの骨や突き棒を使わなければならなかったところに、当時のイスラエルの弱さが見えます。
 聖書では、イスラエルは神が選んで育成されている「神の民」の国ですから、つい最強のイメージを描きたくなるのですが、じつは、とても弱小国だというのがわかります。
 それから、二十年間イスラエルを治めたサムソンは、救国の英雄でした。



荒れ狂うサムソン――サムソンの強さと弱さ

2021年05月26日 | 聖書

 サムソンは結婚式の場で、客のペリシテ人たちに一つのなぞなぞを出しました。賭けられたのは、亜麻布の晴れ着30枚でした。今では、高級品でも衣服はそれほど高くないですが、当時のサムソンには買えないほどのものでした。サムソンは自分が謎に勝って晴れ着を敵から巻き上げるつもりでいましたが、花嫁に答えをあかしたばかりに、謎を解かれて負けてしまいます。

 サムソンは自分のうかつさに荒れ狂います。

 

Coffee Breakヨシュア記・士師記127 怒りに怒りを(士師記15章1節~8節)


 彼女は祝宴の続いていた七日間、サムソンに泣きすがった。七日目になって、彼女がしきりにせがんだので、サムソンは彼女に明かした。それで、彼女はそのなぞを自分の民の人に明かした。(士師記14章17節)
 町の人々は、日が沈む前にサムソンに言った。
    「蜂蜜より甘いものは何か。
    雄獅子よりも強い者はなにか。」
 すると、サムソンは彼らに言った。
    「もし、私の雌の小牛で耕さなかったなら、
    私のなぞは解けなかったろうに。」   (18節)
 その時、主の霊が激しくサムソンの上に下った。
 彼はアシュケロンに下って行って、そこの住民三十人を打ち殺し、彼らからはぎ取って、なぞを明かした者たちに、その晴れ着をやり、彼は怒りを燃やして、父の家へ帰った。(19節)
 それで、サムソンの妻は、彼に付き添った客のひとりの妻となった。(20節)

 サムソンの物語は、読む者に衝撃を与えずにおかないのではないでしょうか。とくに、「兄弟(隣人のこと)に腹を立ててもいけない」(マタイの福音書5章22節)と言われたイエス様のことばを実践しようと願って、実践できない私たちです。腹を立てたサムソンの怒りの火に、油を注ぐような「主の霊」に戸惑います。
 サムソンはもともとたくましい人だったかもしれませんが、主の霊が「激しく下る」のでなければ、アシュケロンの住民を三十人も殺して、晴れ着を取ってくることなどできなかったのです。

 私たちは、スーパーマンがドアをぐるりと一回転すると、スーパーマンに早変わりして、大活躍するのを拍手喝采で待ち受けます。しかし、私たちがスーパーマンに共感する最も大きな理由は、彼が「正義の味方」だからです。日頃は平凡でむしろ気弱な新聞記者クラーク・ケントが、危機一髪に臨んでスーパーマンになり、悪を懲らしめるのです。
 サムソンが危機に陥ったのは、いわば「自分で蒔いた種」です。自分から吹っかけたなぞ、また、妻の泣き落としにあって、ついに彼女に謎の答えを打ち明け、彼女が人々にそれを告げたのです。殺すと脅迫されていたのですから、彼女の行動には同情の余地があります。

 晴れ着三十着をどこかで調達しなければならなくなったサムソンは、悔しがりました。
 普通の道徳の教科書なら、ここでサムソンは自分を反省し、二度とこのような思い付きの行動を取ってはならない、賞品については謝って免除してもらうか、だれかに泣きついて調達してもらい、一生借金を背負っても仕方がないと思い定め、教訓とするのがせいぜいでしょう。

 ところが、ここで、サムソンに主の霊が下るのです、そして、ペリシテ人の町だとはいえ、直接は何の関係もないアシュケロンの人たちが打ち殺され、晴れ着を奪われるのです。
 それでも、腹の虫がおさまらなかったのでしょう。サムソンは、花嫁の床にも入らないで家に帰ってしまいます。花嫁の父は、仕方がないので、娘を客のひとりにやってしまうのです。いわば、短慮に短慮、怒りに怒りを重ねるこのようなサムソンが、なぜ「神に聖別された人」なのだろうと、だれでも、驚くのではないでしょうか。

 ★★★★

 家に戻ったサムソンは、自分が結婚するほど好きだった女のことを思い出しました。それが、帰ってからどれくらいたっていたのかはわかりません。とにかく、かっかと燃えていた怒りが冷えるまでの時間です。それで、サムソンは花嫁の父の家に行って、「妻と会わせてくれ」と頼むのです。

 
 彼女の父は言った。「私は、あなたが本当にあの娘を嫌ったものと思って、あれをあなたの客のひとりにやりました。あれの妹のほうが、あれよりもきれいではありませんか。どうぞ、あれの代わりに妹をあなたのものとしてください。(15章2節)
 すると、サムソンは彼らに言った。「今度、私がペリシテ人に害を加えても、私には何の罪もない。」(3節)
 それから、サムソンは出て行って、ジャッカルを三百匹捕え、たいまつを取り、尾と尾をつなぎ合わせて、二つの尾の間にそれぞれ一つのたいまつを取り付け、(4節)
 そのたいまつに火をつけ、そのジャッカルをペリシテ人の麦畑の中に放して、たばねて積んである麦から、立ち穂、オリーブ畑に至るまでを燃やした。(5節)

 ここでも、妻の父の言い分に間違ったところはありません。結婚式まで上げた花嫁を放置して花婿が帰ってしまうのは、大変な屈辱を彼らに与えたことだったでしょう。「嫌った」は離婚を意味することばですから、花嫁の父が、その場で別の男に娘をやったとしても当然なのです。
 サムソンには、そんな理屈は通じません。彼は、「自分の妻と会いたい」気持ちを遮断されて、怒りに燃えるのです。

 ジャッカルはイヌ科に属するオオカミに似た動物で、当時の中近東にはたくさんいたのでしょう。体長65~100センチくらいですから、中型犬くらいです。それにしても、肉食獣のジャッカルを三百頭もとらえて、尾と尾を結びたいまつをつけると言うのは、常人の力をもってはできないことです。ここでは、特に書かれていませんが、サムソンが怒りをもって行動する時には、「主の霊」が下っていたと考えられます。
 この時期を聖書は、「小麦の刈入れ時」(15章1節)と書いていますから、五月ごろの穂が実って熟したころです。
 そのようなところに、たいまつをつけてジャッカルを放したのですから、これもまた、大事件です。ペリシテ人も怒ります。

「だれがこういうことをしたのか。」
「あのティムナ人の婿サムソンだ。あれが、彼の妻を取り上げて客のひとりにやったからだ。」それで、ペリシテ人は上って来て、彼女とその父を火で焼いた。(6節)

 正確ないきさつなど当事者以外にはわかるわけもありません。「サムソンに見初められた女」は、同族の人間に焼き殺されるのを免れたものの、結局、ここで同じ目に会うのです。
 それを知ったサムソンは、また怒りに燃えます。

 すると、サムソンは彼らに言った。「あなたがたがこういうことをするなら、私は必ずあなたがたに復讐する。そのあとで、私は手を引こう。」(7節)
 そして、サムソンは彼らを取りひしいで、激しく打った。それから、サムソンは下って行って、エタムの岩の裂け目に住んだ。(8節)

 激しい怒りの後始末を、それ以上の激情でおおうサムソン。しかし、彼にも理があったのです。主がペリシテ人と事を起こす機会を求めておられた(14章4節)からです。いって見れば、神様が仕組まれたストーリーだったのです。
 
 グロテスクなほど豪快な人間の物語は、それゆえ、深く考えさせられるところがあるようです。